2012年11月24日 公開
2022年11月09日 更新
さて。当の真田親子だが、数千の人馬が露営する中、芋雑炊を囲んでいる。が、やはり年のせいか、最初に箸を置いたのは昌幸だった。ひと椀を空にするくらいがちょうどいいらしい。昌幸は据わった眼を信幸に向けた。
「治郎少は、何ぞいうてきたか」
何ぞどころではない。連日のように矢継ぎ早に書状が届く。どれもこれもが「さいつ殿」で始まる私信に近いような書状ばかりで、家康の不義に烈火の如く憤りつつも、他の大名には決して見せぬであろう弱音もちらつかせ、最後は決まって「誰よりも頼みとしているのは、さいつ殿である」という意味合いの縋るような文章で締めくくられている。
「内府は、獅子身中の虫」
信幸は、父の言葉にはっと顔を上げた。
「そう、いうてきたのではないか」
「されど、父上。内府は、わが舅にございまする」
信幸の正室である小松殿は、家康の養女である。家康が誰よりも頼みとする本多忠勝が天正壬午の乱における信幸の戦いぶりを眼に留め、男惚れし、おのが娘と娶せたいと望み、家康に頼み込んだ。家康もまた信幸の男ぶりは見事なものと感じていたからすぐにその話に乗り、姫を養女にした上で嫁がせ、舅となった。ということがまことしやかに伝えられているが、家康の腹の中に計略という文字がなかったかといえば嘘になる。真田本家の跡継ぎを自陣に加えたいと願っていたところ、何とも都合よく忠勝が信幸を見初めた。白羽の矢を立てるには充分な娘だったろう。
「確かに、そうじゃ。信幸のいう通り、われらは三者三様、背負うものが異なる」
――のう、幸村。
と、昌幸は、芋雑炊を忙しなく掻き込んでいる次男を促した。
「左様にございます」
箸を休めず、幸村は頬を雑炊で膨らませながら応えた。幸村は、秀吉の媒酌で大谷吉継の娘を娶り正室とした。他に側室もいる。非業の死を遂げた関白秀次の娘(隆精院)である。秀次の側室一の台が産んだ娘だが、一の台は公家の菊亭晴季の娘で、隆精院の祖母は秀次の母にして秀吉の姉の瑞龍院であるから、豊臣家と公家の血を伝えた名家の子女ということになる。
ちなみに菊亭晴季といえば、武田信虎の9女お菊の嫁いだ相手でもある。さらに、かつて武藤家に養子にいって武田の一門衆に加えられていた昌幸の正室にも繋がっている。菊亭家の姻戚に正親町という家があり、当主季秀の妹が菊亭家の養女となって信玄の肝煎りで昌幸の元へ嫁いだ。これが信幸と幸村の母山手殿で、京御前とも呼ばれた。
そのため、血こそ繋がっていないとはいえ、幸村は母親の姪を側室に迎えたことになる。幸村の背負っているものは、何ともややこしい。
「治部殿の書状によれば、わが妻は舅殿が面倒を見て下さっているとのことですが」
「それをして人質というのだ」
信幸は幸村の言にやや口調を荒らげた。そんな長男を宥めるように、昌幸が口を開いた。
「そうしたことからいえば、わしもまた人質を取られておるな」
いや、人質というのはやや聞こえが悪い。宇多頼忠という信濃出の武将がいる。小笠原長時、今川義元、織田信長、羽柴秀長に仕えた主家替えの名人のような人物で、大和郡山に住していたときに三成と知り合い、娘を輿入れさせて正室(後の皎月院)とし、三成の舅となった。さらに昌幸とも知り合い、皎月院の妹を側室に薦めた。つまり、頼忠を鎹にして、三成と昌幸は義兄弟の間柄となる。この時も、その姉妹は佐和山の城にいた。
「まあ、はたして人質というべきかどうか。じゃが、治部少め、つい先日まで挙兵については黙して語らずにおった。義兄弟ともなるべきこのわしに、あやつはだんまりを決め込んでいた。他に洩れるのを懼れてのことと書状にはあるが、いささか尻の穴が小さい」
「その尻の穴の小さな御仁に、手を貸されると申されますか」
「わしは、女子が好きじゃでな。棄てられぬわ」
更新:11月24日 00:05