歴史街道 » 本誌関連記事 » 後醍醐天皇と足利尊氏に禅宗がもたらしたもの

後醍醐天皇と足利尊氏に禅宗がもたらしたもの

2025年05月23日 公開

天津佳之(作家)

鎌倉時代に大陸から伝わった「禅宗」は、後醍醐天皇や足利尊氏など、『太平記』の時代の為政者たちへ、敵味方関係なく、大きな影響を与えていた。そしてそれは、やがて新しい日本文化を生み出していく。作家の天津佳之さんに解説して頂く。

※本稿は、『歴史街道』2025年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

禅宗の大きな影響力

「五山」という言葉を耳にしたことがある人は多いでしょう。

京都と鎌倉、それぞれの地域の仏教寺院を格付けしたもの、というイメージで語られる五山ですが、じつは室町幕府の宗教政策として整備されたもので、禅宗、特に臨済宗の寺に限定されていることは、あまり知られていません。

加えて、その選定権は、足利尊氏にはじまる足利将軍に一任されていたといいます。室町幕府と禅宗は、それほど強く結びついた関係にありました。

禅宗は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、為政者たちの思想に大きな影響を与えています。

鎌倉時代初期、南宋に渡った明菴栄西(みょうあんえいさい)が請来(しょうらい)した禅宗のひとつである臨済宗は、北条得宗家など上級武士の支持を受けて武士階級に広がっただけでなく、儒教の要素も含んだ政治哲学としての側面から皇族や公家たちの学ぶところとなり、後醍醐天皇による建武の新政の理論的な支柱ともなりました。

室町幕府を開いた尊氏も例外ではなく、禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)に深く帰依して、その意見を政策に取り入れ、禅宗を庇護して全国に禅院を設けています。このように、禅宗は公家と武家、あるいは南朝と北朝の別を問わずに影響力を持っていました。

では、禅宗はどのように日本に受容され、政治体制に組み込まれるに至ったのでしょうか。

 

皇族や公家、武家も学んだ

禅宗は、インドから中国に渡った達磨大師(だるまだいし)を祖とし、座禅を修行の基本に置いた仏教宗派の総称です。中国では唐〜宋の時代に隆盛を迎え、五家七宗と呼ばれる複数の宗派が並立していました。

そのなかで日本に渡ったのが、臨済義玄を祖とする臨済宗と、洞山良价(とうざんりょうかい)と曹山本寂(そうざんほんじゃく)を祖とする曹洞宗でした。

建久2年(1191)に宋で臨済宗を学び帰国した栄西は、もともと天台宗の僧だったこともあり、既存宗派との融和を模索します。しかし、既存宗派は朝廷から禅宗停止(ちょうじ)の宣下(せんげ)を引き出すなど、禅宗の排斥に動きました。

京での布教に限界を感じた栄西が向かったのは鎌倉、新たな政治勢力として台頭しつつある幕府の庇護を得ようとしたのです。

そんな栄西に手を差し伸べたのは、源頼朝の妻・北条政子でした。政子は頼朝の一周忌の導師を栄西にまかせたほか、自身が建立した寿福寺の住持に据えるなど厚遇します。

以後、臨済宗は北条得宗家と密接な関係を結び、なかでも第五代代執権・北条時頼と第八代執権・時宗の親子の帰依を受けたことをきっかけに、幕府や上級武士に広まっていきます。

武士階級が禅宗を受け入れた理由はさまざまですが、経典などの勉学による修行を重視する従来宗派と比べて、座禅などの鍛錬や実践を通じて精神を修養する教えが、武士の気風と合致していたのは理由のひとつでしょう。

また、時頼の時代には、禅宗の栄えた宋が元の侵攻を受けており、宋の優れた禅僧が日本に逃れてきていました。同時に、日本の僧にも禅を修めるべく宋に渡った者が多く、彼らから大陸の情勢を知るという、外交上の必要もあったと考えられます。

一方、時をおいて京でも、禅宗を受容する政治集団が現れます。それが、のちの南朝となる大覚寺統でした。

同統の祖である亀山天皇は、当時まだまだ新興の宗派であった禅宗を手厚く保護し、のちに五山別格とされる南禅寺を日本最初の勅願禅寺として建立。公家にも、徐々に禅宗が浸透していきます。

大覚寺統が禅宗に傾倒した理由は、禅宗と不可分であった宋学にありました。

宋学は名前の通り宋で発展した儒教の一派で、禅宗の影響を強く受け、伝統的な儒教とは一線を画した"新儒教"とも呼べる学問体系を確立していました。

宋と行き来する禅僧たちは、禅とともに最新の学問である宋学を伝えており、漢籍を尊ぶ王朝文化の伝統を保つ皇族や公家には、受け入れやすかったと考えられます。

とりわけ、宋学や禅宗に傾倒したのが、後醍醐天皇でした。近年の研究では、後醍醐天皇には建武の新政に宋学と禅宗の理念を取り入れ、新たな国家統治の枠組みとして活用する構想があったといいます。そのために、臨済宗の禅僧に国師号を数多く贈り、五山を定めて禅寺の序列を作るなど、禅宗の隆興を政策的に行いました。

このように、禅宗は鎌倉時代を通して新興宗派として扱われながらも、公武に共通する思想として受け入れられ、さらには政治的な意味合いを持つようになっていきました。

 

時には戦いの調停も...

特に、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、天皇や上皇の帰依を受けた禅僧たちが、禅宗の振興に寄与しました。

例えば、臨済宗・大徳寺開山の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、赤松則村(のちの円心)の甥で、天台宗を学んだ後に禅宗に移った人物です。

叔父の帰依を受けて京都に大徳庵(のちの大徳寺)を建立した妙超は、北朝となる持明院統の花園天皇の熱烈な帰依を受けました。一方、大覚寺統の後醍醐天皇にも崇敬され、ゆかりの播磨国浦上荘を寄進されています。

ひと際有名なのは、臨済宗夢窓派の祖・夢窓疎石でしょう。疎石は宇多天皇九世孫、父親は近江源氏佐々木氏、母親は平氏と伝えられており、はじめは天台宗と真言宗を学んだのちに、建仁寺の無隠円範(むいんえんぱん)に禅を学び、渡来僧の一山一寧(いっさんいちねい)に参禅後、浄智寺の高峰顕日(こうほうけんにち)の法を嗣ぎました。

その禅風は天台宗や真言宗を兼修する折衷的なもので、純粋な禅ではなかったものの、幅広い層の支持を受けて、当時の臨済宗では最大派閥を形成するにいたっています。歴代の天皇から七度も国師号を授与され、後世に「七朝帝師(しちちょうていし)」とも讃えられました。

禅僧としての業績の他、作庭家としても著名です。天龍寺庭園の他、疎石は苔寺として知られる西芳寺(さいほうじ)庭園を築くなど、禅庭や枯山水の完成者とも呼ばれており、侘(わ)び寂(さ)びといった日本独自の美意識の基礎を築いたと評価されています。

さて、そんな疎石と、当時の為政者たちとの関係を見ていきましょう。まず、疎石の才覚を見出し、表舞台へと導いたのは後醍醐天皇でした。正中2年(1325)、後醍醐は祖父・亀山天皇が建てた南禅寺の住持として疎石を招き、教えを請いました。

最後の得宗・北条高時も、疎石に帰依したひとりです。南禅寺住持を辞した疎石を鎌倉に招き、円覚寺(えんがくじ)に住まわせて、第十五代執権・北条貞顕(さだあき)とともに帰依しました。

そして、足利尊氏と直義(ただよし)の兄弟もまた、疎石の熱心な信奉者でした。両者の関係が始まった時期は諸説ありますが、少なくとも建武の新政が始まったころには、兄弟ともに疎石と師弟関係となっています。

のちに足利兄弟が建武政権と対立し、南北朝の争いに発展するなかで後醍醐天皇が崩御すると、その菩提を弔うことを二人に強く勧めたのが疎石でした。

彼の勧めに従い、尊氏と直義は北朝の光厳院の勅許を得て天龍寺を建立。南北朝の争いによる戦没者を慰霊するべく、全国に安国寺と利生塔(りしょうとう)を設置しました。

さらに疎石は、足利政権の内紛である観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)の際には、調停役としてその収束に一役買っています。

妙超や疎石だけではありません。この時代、多くの臨済宗の禅僧が勢力の別を超えて崇敬され、そこで培われた思想や理論が為政者たちを動かしていました。

その意味では、鎌倉と京、公家と武家、南朝と北朝、それぞれの根底にある思想は、共通していたとみることができるかもしれません。

 

新たな"日本らしさ"を醸成

その後尊氏は、天龍寺を五山に加えることを光厳院に願い出て、院は五山の選定と住持の任命を一任。これを慣例として、代々の足利将軍が五山を定める制度が確立していきます。

そして、足利三代将軍・義満は、改めて五山十刹(じっさつ)を制定し、臨済宗の禅寺を官寺として政治機構の一部に取り込み、その思想を統治に活用していくことになるのです。

ここから、禅や儒教を取り入れた武家の精神や規範、文化が社会的に醸成されることとなり、安国寺・利生塔に派遣された五山の僧により全国へと伝播。

それまで、個人や集団による個別的な動きだった禅の修養は、武家社会全体の共通認識へとなっていきました。この流れは、室町幕府はもちろん、江戸幕府にも引き継がれていきます。

それだけではありません。禅宗から五山文学や水墨画、茶の湯といった文化が芽生え、武士をはじめとした広い階層に浸透していくことで、国風文化とはまた違った、新たな日本独自の文化を生み出したのです。

こうした流れの源流になったとして、後醍醐天皇の興禅事業と統治理念を評価する説も現れています。建武の新政が短命に終わったためにその構想は実現しませんでしたが、同じく疎石に学んだ尊氏が実現させたことで、以後の武家社会や武家文化の基礎を築きました。それが引いては、禅や侘び寂びという新たな"日本らしさ"を作った、と考えるのも面白いかもしれません。

 

【天津佳之(あまつ・よしゆき)】
作家。昭和54年(1979)、静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。 書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。令和2年(2020)、 足利尊氏と楠木正成を、理想を同じくする同門として捉えた『利生の人 尊氏と正成』で 作家デビュー。著書に『和らぎの国 小説・推古天皇』『あるじなしとて』『菊の剣』がある。

歴史街道 購入

2025年3月号

歴史街道 2025年3月号

発売日:2025年02月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

足利尊氏~愛されキャラで強運だった武家の棟梁

4月30日 This Day in History

鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?~歴史における「引き金」を引いた後醍醐天皇

山本博文(東京大史料編纂所教授)

日本にインゲン豆と木魚を伝えた隠元さん

『歴史街道』編集部