そして3月19日、343空はまだ錬成の途中ながら、初陣を迎えました。源田は整列する搭乗員に訓示します。「古来、これで十分という状態で戦を始めた例は1つもない。目標は敵戦闘機」。
この時、呉軍港攻撃に向かう敵の戦爆連合の大編隊に対し、ターゲットを敵戦闘機に絞ったのは、護衛の戦闘機を343空が片付ければ、敵に相当な脅威を与えるとともに、護衛のない爆撃機であれば他部隊でも攻撃できるだろうと読んだのでしょう。
逆にいえば当時、強力な敵戦闘機を落とす能力がある部隊は、343空だけだったのです。そして、結果は見事なものでした。一方的に敵に押されていた当時において、343空は敵を圧倒する戦果をあげたのです。
地上から空戦を注視する源田に部下が「司令、絶対優勢です」と声をかけると、源田は「うむ、そうらしいな」と応えたといわれますが、その時の心中を源田は「松山上空に於ける奮戦は、敗戦続きの我が航空隊に一服の清涼剤を与えた感があった」と著書の中で記しています。
実際、343空の初陣の戦果は国内の士気を大いに高めました。そして、源田の真のねらいはそこにあったのだろうと私は考えます。
前年のレイテ沖海戦で水上艦艇の大半を喪失した日本海軍は、既に勝機を失っていましたが、敗北感が蔓延し始めていた当時において、343空という必勝部隊の存在は、心理的支えとして大きな効果をもたらしたはずです。またアメリカに対しても、日本航空部隊、健在なりという強烈なアピールとなりました。
もちろん冷静に考えれば、一航空隊の規模では戦局に影響を与えることはできません。しかし源田は、アメリカ軍を優越する部隊があるという事実を敵に見せつけた上で矛を収め、その後の米軍の、日本海軍に対する認識を高めることになると考えていた可能性もあります。
いずれにせよ、343空が日本海軍において突出した近代的航空隊であったことは間違いありません。もし343空と同程度の精鋭部隊をもう1つ厚木基地あたりにも置いて、2倍のスケールで展開していたら、日本の防空体制は随分違っていたはずです。
343空は日本海軍戦闘機隊の最後の華ともいうべき、素晴らしい部隊でした。日本海軍航空隊は敵に押されるまま、ずるずると情けなく負けたのではなく、一部にせよ最後までアメリカを圧倒する力を保持して終戦を迎えたことを、彼らは証明してくれているのです。
そしてその生みの親である源田も、功罪半ばする部分はあるにせよ、あの困難な時期に合理的発想で最強戦闘機隊を実現させた功績は、評価されてしかるべきでしょう。
更新:11月22日 00:05