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経済感覚に優れた前田利家...人件費を惜しみ「農民42名を代官に任命」した計算高さ

2024年12月03日 公開

橋場日月(作家)

前田利家

難しい立場に立たされたとき、一か八かの決断を迫られたとき、 存亡をかけた局面に置かれたとき......、きらりと光る能力を発揮し、 見事に苦境を打開した戦国武将がいた。今回は、前田利家をご紹介しよう。

 

前田利家の「計算高い横顔」

天正12年(1584)9月、加賀の前田利家は一大危機に見舞われる。越中の佐々成政が利家方の能登末森城を包囲したのだ。1万5000の佐々軍に対し、城兵は10分の1の1500に過ぎない。利家は「夢にもご存じなし」(『加越登記』)と油断しきっていたし、居城の金沢城にも出動できる兵は2500しかいない。 

利家が困り果てているところへ、正室のおまつが入って来た。彼女は夫を見据えて重そうな袋をドサリと置いてこう言い放つ。

「つね日頃、家来を多く召し抱えられませとご忠告したのに聞かず、お金を貯めていらっしゃったのですから、ささ、この金銀に槍を持たせて戦わせなされませ」。

袋の中身は、利家が貯めに貯めた金銭。妻にやりこめられた利家は、開き直って2500の兵を率いて出陣する。言わばヤケのヤンパチだったのだが、捨て身の覚悟が功を奏して首尾良く佐々軍を撃破することができた(『川角太閤記』ほか)。 

前田利家といえば、若いころは荒小姓として傾いた風体で織田信長の側近くに仕え、赤母衣衆のひとりに列し、「槍の又左」と恐れられるほどの武勇を誇った武人だが、このエピソードでわかるように非常なケチでも知られている。

なにしろ人件費を惜しんで必要な家来を確保しなかったために、奉行や代官の数が足りず、農民42名に代官職を委嘱したぐらいだから、推して知るべしだ。

まさに"計算高い"横顔だが、彼の場合、その計算=算術の力は今でも形としてこの世に残っている。それが、ソロバンだ。

前田尊経閣所蔵の「陣中そろばん」と呼ばれるものは、利家が朝鮮出兵の折りに、肥前名護屋の陣中で、遠征する士卒の兵糧や、御手当などの計算に用いたと伝わる。常にこれを懐に入れて、必要とあらばすぐに取り出してパチパチと珠をはじいていたわけだ。

この計算力を活かして、税金をアップできそうだと見れば即座に実行し、米の販売ルートを開拓して現金収入の確保にも努めた。

こうして倹約と貯蓄に励んだ結果、利家には息子の利長に「1000両もあれば何も不安は無いから」と黄金500枚(5000両。現在の価値に換算すると20億円以上)を融通できるほどの余裕が生まれた。

それだけではない。細川忠興・堀秀治・伊達政宗ら錚々たる大名ら78人にも金子50枚、30枚と金を貸し付けたが、臨終の際、「わしが死んだら、前田家の味方になる者には貸付証文を返してやれ。そうすれば、お前の人望があがり、その他の者たちも味方にと集まって来るだろう」と利長に言い遺したのだ。 

自分の死後に起こるだろう徳川家康と石田三成の戦いを見越して、融資金を帳消しにしても、その者たちが味方してくれれば、前田家が潰れることはない、という利家のソロバンは確かだった。

直後に利長は家康から謀反の疑いをかけられたが、その際には借金を水に流してもらった忠興らが奔走し、結果として前田家は江戸幕府最大の大名として生き残ったのだから。

 

著者紹介

橋場日月(はしば・あきら)

作家

昭和37年(1962)、 大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に 歴史研究、執筆を行なう。著書に『地形で読み解く 「真田三代」最強の秘密』『新説 桶狭間合戦─知られざる 織田・今川七〇年戦争の実相』『明智光秀 残虐と 謀略─一級史料で読み解く』などがある。

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