2024年09月09日 公開
七尾城本丸跡からの眺め
島根県の西部、日本海に面した益田市。そこには、天然の要害を誇る山城と、長い歴史をもつ神社仏閣、 そして500年にわたって保たれた、美しい庭園があった。ここを治めた益田氏とは、どんな一族だったのか──。
島根県益田市に、「七尾城」という山城があるのをご存じだろうか。石川県にも「七尾城」があり、16世紀頃、畠山氏によって築かれた山城だが、島根の七尾城はさらに古く、南北朝時代の文献にその名が見られるという。規模も大きく、山城ファンにも人気があるとのこと。中世の香りを色濃く残す町・益田を訪ねてみた。
益田市立歴史文化交流館「れきしーな」
市内に萩・石見空港があり、空港から車で15分ほどで、益田の城下町へとたどり着く。まずは、益田市の概要を学ぶため、益田市立歴史文化交流館「れきしーな」へ。出迎えてくれたのが、益田市文化振興課の中司健一さんと佐伯昌俊さんだ。
「益田市の沿岸部は、益田川と高津川という2つの大きな川によってできた沖積平野です。かつては、今より多くの支流が複雑に入り組んでおり、河口域が潟湖のようになっていたと考えられています。そのため天然の良港として栄え、11世紀後半から12世紀に発展した港湾集落など、複数の遺跡が見つかっています」
「れきしーな」には、タッチ式の電子パネルがあり、かつて川が流れていた場所などを、現在の地図と比べて確認することができる。
「平安時代の終わりごろ、御神本国兼(みかもとくにかね)という人が、石見国司として赴任してきました。以後土着し、四代目兼高のときには、源平合戦でいち早く源氏に味方して活躍したことで、鎌倉幕府から石見国のほぼ全域を所領として与えられたそうです。
当時国府は東隣の浜田市にあったのですが、兼高は本拠を益田に移し、以降は益田氏を称するようになっています。その益田氏が居城としたのが七尾城です」
七尾城は、益田川が山あいから平野へと流れ出るあたりに築かれた。
「七尾城の西には『三宅御土居』があり、益田氏の居館だったようです。七尾城とどちらが先に築かれたのかははっきりしませんが、この地域の開発拠点だったのではないかと考えられています」
益田氏についても、鎌倉時代は不明な点が多く、その生涯について多く判明しているのは、11代の益田兼見以降らしい。
「南北朝時代の武将である兼見は、家訓のようなものを記した『置文』を残しています。一族が所有する領地の取り扱いなどについて記すとともに、寺社の名を挙げ、これらを大切にすべしと説いているんです」
益田氏によって保護されたと考えられる寺社は、現在も城下で受け継がれているのだそうだ。さっそく行ってみよう。
「れきしーな」にある、三宅御土居の復元模型
最初に訪れたのは、七尾城の大手門が移築されているという「医光寺」だ。
「『置文』に『崇観寺』の名が記されていますが、寺堂が焼失してしまい、17代当主の益田宗兼が、東隣にあった医光寺を後身寺院として再興したようです。宗兼は大内義興とともに上洛し、室町幕府の10代将軍足利義稙を支えました」
医光寺の見どころは、禅僧で水墨画家として名高い雪舟が築いたといわれている庭だ。宗兼の祖父・益田兼堯が、雪舟と親交があり、作庭を依頼したという。山の斜面を活かした庭には、さまざまな植物が配置され、見ていて飽きることがない。
もう一つ、雪舟が作ったとされる庭が益田にある。「置文」に「御道場」と記された、時宗の寺院・萬福寺だ。
神一紀道(こうかずとしみち)住職によると、平安時代に創建された天台宗の「安福寺」が前身で、益田川の河口付近にあったが、大津波で流されてしまい、鎌倉時代末期、呑海上人によって再興されて時宗の寺院となった。その後、11代兼見によって、応安7年(1374)に萬福寺として再興、益田家の菩提寺になったそうだ。そのときに建てられた本堂が現在もそのまま建っている。
同じく雪舟によって築かれた庭ながら、医光寺とは趣がまったく異なる。医光寺の庭を「動」とすれば、こちらは「静」のイメージだ。
「世界の中央に仏様が住んでおられる須弥山があり、そのまわりを9つの山と8つの海が取り囲んでいるという、仏教の『九山八海』の思想を表わしているといわれています」 と、神一住職が教えてくれた。石組みは500年前から変わっていないとのこと。雪舟の描いた世界を、今も目の当たりにできることに感動する。
本堂は幕末、第二次幕長戦争の折に幕府軍の陣営となった。そのときの弾痕が今でも残っており、戦火を潜り抜けたたたずまいが壮観だ。
続いて訪れたのは、「置文」に「瀧蔵」と記された染羽天石勝神社。『延喜式』に名が残る式内社で、社殿の右手にある大きな一枚岩が崇拝の対象とされ、神仏習合思想が進んだ平安時代には、真言宗の瀧蔵山勝達寺が境内に建立された。
「天正9年(1581)に本殿が火災に見舞われ、19代の益田藤兼公と20代の元祥公によって再建されました。拝殿の棟には、益田家の紋が入っています」 と小川喜直宮司が話してくれた。たしかに、「久」の字が入った益田家の家紋が見て取れる。
また、「置文」には、氏神として大切にするべき神社として「惣社」の文字もあり、現在の妙義寺の境内にあったと考えられている。妙義寺も益田氏の崇敬を受けた寺で、13代益田兼家の建立と伝わり、19代藤兼が大々的に再興した。
この妙義寺の背後にあるのが七尾城跡だ。いよいよ、本丸へと上ってみることにする。
七尾城跡
七尾山の中腹にあるという住吉神社の鳥居をくぐり、長い階段を上って、中司さん、佐伯さんに案内してもらいながら本丸を目指す。
「七尾山は、北東に尾根がY字になっている部分があり、間に谷があって、そちらが大手筋だったと考えられています。敵方が侵入してくると、両側の尾根から攻撃できる構造です。尾根を切ったり、土を大きく盛ったりしなくても、もともとの地形が天然の要害となっているんです。
当初は、Y字になった尾根の、片側の一部のみ使われていましたが、戦国時代に入り、山全体を要塞化したと考えられています。益田氏は、大内氏を事実上牛耳っていた陶晴賢と協力関係にありましたが、陶氏が毛利元就に討たれ、毛利氏との関係が緊張状態に陥ったという背景がそこにはありました」
しかし、19代の藤兼は、毛利との交戦を選ばず、和睦の道を取った。
「益田氏は、時流を読むのが上手かったのでしょう。しかも、和睦が成立したあと、藤兼・元祥父子が毛利の居城・吉田郡山城を訪れ、膨大な贈り物をしているんです。朝鮮から輸入した虎皮や、北方との交易で得た昆布を使った料理など、当時入手困難なものを贈って経済力を見せつけた。益田氏は外交にも長けていたんだと思います」
本丸跡からは、益田の城下町が一望できて、日本海まで見渡すことができる。本丸には、瓦葺の建物があったと見られているという。
「発掘調査により、一年を通して生活できる空間が整備されていたことがわかりました。庭園を備えた建物跡も見つかっていて、中国や朝鮮半島から輸入された青磁の鉢、香炉なども出土しています。つまり、ここで饗応や茶会を催していたということです。大名に引けをとらないほどの財力と、高い文化をもっていたことがわかります」
各地の文物を取り入れ、高度な文化がこの地で醸成されたのだ。
「益田氏は数々の寺社を保護していますが、それは京都から有識者を招くためでしょう。中世のお寺は知識や文化の拠点だった。最先端の知識を学んだ人を招聘することで、益田の文化的水準が上がります。 なにより益田では、特に大きな戦乱が起こりませんでした。長く平和が保たれたおかげで、交易が盛んになったし、文化も花開いたという側面があるんじゃないでしょうか」
戦乱に巻き込まれることが少なかったという歴史にふさわしく、町はゆったりとした空気に包まれていた。大事に護られてきた遺産と、人々の間に培われてきた文化が、誇りとして今に伝わっている、そんな思いを抱かせてくれる旅だった。