新紙幣が発行されて約2ケ月。手に取られた方も多いことだろう。肖像には、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎が描かれているが、そもそもなぜ、紙幣に肖像が使われ、どのような基準で選ばれるのだろうか。そして、これまで、いかなる人物が採用されてきたのか。紙幣の肖像にまつわる、知ってそうで知らない話をご紹介しよう。
「紙幣」と聞くと、歴史上の人物の肖像を思い浮かべる人は多いだろう。「諭吉(福澤諭吉)」が一万円札の代名詞となっているように、紙幣と肖像は切っても切り離せない関係にある。
紙幣に肖像が印刷されているのは日本だけでなく、世界共通だ。世界各国で発行さ7れている紙幣の約7割には、肖像が使われているという。歴史上の人物の肖像が使われる理由は、ひとつにはその国で著名な人物を採用することで、紙幣そのものに親しみをもってもらうことにある。
だが、それ以上に大きな理由は、偽造防止のためだ。一般的に人間は人の顔を見分ける能力が高いため、もし紙幣の肖像が普段見ているものと少しでも違うと違和感を覚える。それが、偽造防止に繫がるのだ。
令和6年(2024)7月に、一万円、五千円、千円の新紙幣が発行されたが、もちろん、それらにも肖像が印刷されている。一万円札は「近代日本経済の父」と呼ばれる実業家の渋沢栄一、五千円札は女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立し、日本の女子教育に尽力した津田梅子、千円札はジフテリアと破傷風の抗血清開発などの功績を上げ、「近代日本医学の父」と呼ばれる北里柴三郎だ。
そこでこの機会に、過去に発行された日本の紙幣に印刷された歴史上の人物たちを紹介していきたい。なお、本稿で扱う「紙幣」は、基本的には現在一般的に紙幣として流通している、日本銀行が発行する日本銀行券に限らせていただく。
日本銀行の最初の紙幣は、明治18年(1885)に発行された一円札(旧壹圓券)だ。ただ、この紙幣に印刷されていたのは七福神の一柱である大黒天で、人物の肖像ではない。その後、政府は紙幣に印刷する肖像の基準を「天皇と国に尽くした歴史上の人物」と定めた。
それに基づいて初めて肖像として採用された歴史上の人物は、明治21年(1888)に発行された五円札(改造五圓券)の菅原道真である。菅原道真は、平安時代の貴族で文人だ。宇多天皇に重用されたものの、謂れ無き謀反の嫌疑をかけられ、大宰府へ左遷。それでも天皇を恨まず、誠実に謹慎したことから忠臣の代表として名高い。また、学問の神様として庶民の信仰も根強い。
次に紙幣の肖像として選ばれたのは、武内宿禰だ。武内は、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に仕えたとされる古代の伝説的忠臣で、明治22年(1889)に発行された一円札(改造壹圓券)に印刷された。実は、この武内宿禰が印刷された一円札は、130年以上も前に発行されたにもかかわらず、法律上では現在も使えることになっている。
『古事記』、『日本書紀』の記述に従うなら、武内は300年以上も生きたことになるが、偶然にせよ、そんな武内が印刷された紙幣が長寿を保っているのは面白い。
ちなみに、先に紹介した最初の日本銀行券である大黒天が印刷された一円札も法律上は現在も使うことができ、歴史上の人物に限らなければ、これが我が国で、もっとも長期間使うことができている紙幣ということになる。
明治23年(1890)に発行された十円札(改造拾圓券)には、和気清麻呂が採用された。和気は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族で、僧侶の道鏡が皇位に即こうとしたのを防いだ功績で知られている。さらに、平安京遷都にも尽力した。
ところで、日本の紙幣に印刷されている肖像は、中央に配置されたケースはいくつかあるが、ほとんどの場合、紙幣の右側に配置されている。だが、和気清麻呂が採用された大正4年(1915)発行の十円札(乙拾圓券)は、その肖像が左側にある。
左側に配置された理由は不明だが、他の紙幣と肖像の位置が反対であることから、紙幣を数える際、わかりづらく、不便だという声が多く出た。そのため、この和気の十円札以外、日本の紙幣で肖像が左側に配置されているものはない。ただその希少性から、和気の十円札は、「左和気」の通称で古札マニアのあいだで人気が高い。
もう一人、明治時代に発行された紙幣に印刷された歴史上の人物に、藤原鎌足がいる。明治24年(1891)に発行された百円札(改造百圓券)で採用された。藤原鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として大化の改新を推し進めた飛鳥時代の貴族だ。
この改革により、日本の政治は、それまでの豪族中心のものから天皇中心へと変わったとされている。その意味では、明治時代の紙幣の肖像の採用基準である「天皇と国に尽くした歴史上の人物」を象徴する人選といえるだろう。
昭和時代に入ってから発行された紙幣の図像で、新たに採用された歴史上の人物としては、昭和19年(1944)に発行された五銭札(い五錢券)の楠木正成がいる。正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、最後まで南朝側に尽くした忠臣として知られている。だが、紙幣に印刷されたのは皇居前広場の楠木正成像であり、「肖像」ではないため、ここではこれ以上は触れない。
景行天皇の皇子で、熊襲征討、東国征討を行なったとされる古代日本の伝説的英雄である日本武尊は、昭和20年(1945)に発行された千円札(甲千圓券)で初めて採用された。ただ、この千円札は敗戦の2日後である8月17日に発行され、翌年の3月2日には失効したという、極めて短期間しか流通しなかった紙幣である。
そんな敗戦の混乱期のなか、数奇な運命を辿ったのが聖徳太子だ。聖徳太子の肖像が初めて紙幣に採用されたのは、昭和5年(1930)に発行された百円札(乙百圓券)である。その後、昭和19年に発行された百円札(い百圓券)と、昭和20年に発行された百円札(ろ百圓券)でも採用された。
ところが、敗戦後の日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は昭和21年(1946)、明治時代に日本政府が定めた「天皇と国に尽くした歴史上の人物」という紙幣の肖像の採用基準を、軍国主義的な色彩が強いと否定。これにより、それまでに発行された紙幣で採用されていた人物は、すべて使えなくなりかけた。
しかし、当時の日銀総裁だった一万田尚登は、「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど、軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と強く主張。その結果、聖徳太子だけは例外的に使用が許されることになったのである。
このおかげで、その後も聖徳太子は、昭和21年発行の百円札(A百円券)、昭和25年(1950)発行の千円札(B千円券)、昭和32年(1956)発行の五千円札(C五千円券)、昭和33年(1958)発行の一万円札(C一万円券)でも採用され続け、「お札の顔」として長く親しまれることとなった。
戦前の紙幣で採用されていた菅原道真や武内宿禰なども複数の紙幣で使用されているが、戦前2回、戦後5回の計7回も採用された聖徳太子は、日本の紙幣に、もっとも多く登場した人物である。
ちなみに、最初に採用されて以降、紙幣に印刷された聖徳太子の肖像はすべて、太子を描いた最古の肖像画とされる「聖徳太子二王子像」を基としている。
GHQの意向を受け、昭和21年に発行された一円札(A一円券)の肖像には二宮尊徳が選ばれた。江戸時代後期に農民の子として生まれ、その生涯を荒廃した農村の復興に費やした尊徳を、GHQが「日本の民主主義者」と高く評価していたことが採用の決め手になったという。
その後、1950〜60年代に発行された紙幣には、戦前から引き継がれた聖徳太子を除き、日本の近代化に功績のあった明治時代以降の政治家が新たに選ばれることとなった。
昭和26年(1951)発行の五百円札(B五百円券)と五十円札(B五十円券)には、それぞれ岩倉具視と高橋是清が選ばれ、昭和28年(1953)発行の百円札(B百円券)には板垣退助が、昭和38年(1963)発行の千円札(C千円券)には伊藤博文が採用されたのである。
岩倉具視は明治維新の中心人物の一人で、維新後は欧米に渡って西洋の政治や文化を学び、日本に導入した人物だ。
高橋是清は明治時代から昭和初期にかけて日本銀行総裁や大蔵大臣、総理大臣などを歴任し、最後は二・二六事件で暗殺された人物である。
板垣退助は明治時代の自由民権運動の指導者、伊藤博文は初代内閣総理大臣であると同時に、日本初の近代憲法である大日本帝国憲法の制定において、大きな役割を果たしたことでも知られている。
ところで、一円札の二宮尊徳や五百円札の岩倉具視の肖像には髭がないが、これは、当時としては珍しい(終戦直後の短期間だけ流通した千円札の日本武尊にも髭はないが)。髭のない肖像画は描線が単純になってしまうため、印刷技術が未熟だった時代は、偽造防止の観点から避けられがちだったのだ。
今年発行される新一万円札の渋沢栄一も、戦後すぐに紙幣の肖像画候補として挙がったことがあったが、「髭がない」という理由で、そのときは見送られたという経緯がある。しかし、印刷技術が向上するにつれ、こうした制約は次第に消えていった。
やがて、1980年代に入ると、紙幣の肖像は政治家ではなく、おもに明治時代に活躍した民間の文化人が選ばれるようになっていく。昭和59年(1984)に3種類の新紙幣が発行されたが、千円札(D千円券)には文豪の夏目漱石が、五千円札(D五千円券)には思想家で教育者の新渡戸稲造が、一万円札(D一万円券)には思想家で教育者の福澤諭吉が選ばれたのである。
2000年代になると、紙幣の肖像の人選に、また大きな変化が生まれた。戦後、紙幣の肖像に選ばれるのは政治家と文系の人物に偏っていた。だが、平成16年(2004)に発行された千円札(E千円券)では、その反省からか、初めて理系の科学者が採用されたのだ。
選ばれたのは、明治後期から昭和初期にかけて、黄熱病や梅毒の研究を行なった医師で細菌学者の野口英世である。今年発行される新千円札で採用された北里柴三郎も、科学者をもっと取り上げていこうという、この流れの延長線上にあるのだろう。余談だが、北里と野口は師弟関係にある。
また、同じく平成16年に発行された五千円札(E五千円券)では、日本銀行の発行する紙幣としては初の女性である、明治時代の小説家の樋口一葉が選ばれた。女性が採用されたのは、昭和60年(1985)に男女雇用機会均等法が制定されて以降、女性の社会進出が進んだことが背景にあるとされている。
もっとも、日本銀行の発行する紙幣では樋口一葉が初の女性だが、それ以前に日本の紙幣で女性の肖像が採用されたことがある。明治新政府成立後しばらくのあいだ、日本銀行ではなく、政府が直接発行する政府紙幣というものが存在していた。その政府紙幣のうち、明治14年(1881)に発行された一円札に、古代日本の伝説的な皇后である神功皇后の肖像が印刷されているのだ。しかも、この一円札は日本初の肖像の入った紙幣でもあった。
つまり、最初に紙幣の肖像に選ばれたのは女性だったのである。神功皇后は、日本に初めて貨幣の存在を広めた人物とも言われている。そういう意味では、紙幣の肖像として、これほど相応しい人選はないかもしれない。
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日本銀行が発行する紙幣に印刷された肖像としては、現行紙幣も含めて、これまで16人が採用されてきた。130年以上の歴史を考えると、少ないようにも感じるが、肖像の選定は意外と難しい作業だ。国民の多くに受け入れられる人物でなければいけないし、認識しやすい個性的な顔立ちをしていなければいけない。さらに、人物の歴史的評価は時代によって変わることもあるので、その判断も難しいところである。
現在、紙幣の肖像の選定は、財務省、日本銀行、国立印刷局の三者が協議し、最終的には財務大臣が決定することになっている。選定の明確な基準はないが、日本国民が世界に誇れる人物で、一般によく知られていることと、偽造防止のため、なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であることが、おおよその条件になっている。今後も、新紙幣発行が決まるたびに、関係者は頭を悩ませることになるのだろう。
【奈落一騎】
歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。
更新:11月21日 00:05