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なぜ孫皓が擁立された? 呉を破滅へ導いた「ラストエンペラー」の裏の顔

2023年09月29日 公開

島崎晋(歴史作家)

孫皓

勇将・智将といった英傑たちの活躍が語り継がれる三国志。その一方で、帝国を象徴する「皇帝」については、語られることが少ない。ここでは、魏と呉のラストエンペラーを紹介しよう。 

※本稿は『歴史街道』2023年5月号から一部抜粋したものです。

 

司馬昭の脅威にさらされた曹奐

暗愚という評価であれ、その人物像が伝えられるだけ、蜀漢の劉禅はまだましかもしれない。魏のラストエンペラーとなった元帝曹奐に至っては、それさえ伝えられていないのだから。

曹奐は曹操の孫で、父の曹宇は曹丕の異母弟。4代皇帝の曹髦が司馬昭打倒に立ち上がりながら、無残な最期を遂げた後を受け、司馬昭により擁立された。ときに15歳だった。

曹奐の役目は、司馬昭の息のかかった者たちからの上奏内容を追認するだけ。彼にできる抵抗は意思表示を遅らせるくらいで、却下などしようものなら、何をされるか考えただけで恐ろしかった。

右の手順で司馬昭を晋公に封じ、丞相と同等の相国の肩書を授与。司馬昭は曹髦の代から何度も相国の辞退を重ねたが、それは群臣の反応を見るためで、5回目の詔勅が発せられるに及んでようやく受諾。公にも皇帝に準じる立場となった。

その司馬昭も265年8月、55歳で病死。帝位簒奪の仕上げは息子の司馬炎に託された。

相手が司馬炎に代わったところで、曹奐の置かれた状況が好転することはなく、同年12月、禅譲を求める上奏が相次ぐに及び、曹奐はとうとうそれを受諾。南郊に築かれた檀上で禅譲の儀式を行ない、帝位を司馬炎に譲渡した。西晋王朝の成立である。

これにより曹奐は陳留王に降封されるが、食邑として1万戸を与えられた。ときに20歳。彼の享年は58だから、とてつもなく長い余生の始まりだった。

 

権力を振りかざし、処罰を繰り返した孫皓

三国志の対立の構図は、「魏・呉・蜀」から最終的には「晋・呉」へと変わった。呉のラストエンペラーは4代目の孫皓である。

孫皓は孫権の孫にあたる。父は孫権の三男・孫和。孫和には孫権の後継者に指名されながら、弟孫覇との対立が高じたせいで廃嫡のうえ、自害に追い込まれたという経緯があった。

そのため、本来であれば孫皓に帝位が巡ってくるはずはなかったが、3代目の孫休が30歳という若さで病死。蜀漢の滅亡に続き、交阯(ベトナム)の離反が起きるなど、人心の動揺が激しい状況下、幼帝では心もとないというので、そのとき23歳になっていた孫皓に白羽の矢が立てられたのだった。

しかし、正史の「三嗣主伝」を見る限り、人びとは孫皓を見誤っていた。孫皓は元来、粗暴で驕慢、肝っ玉が小さいうえに執念深く、酒や女色を好み、それが周知されると、みな失望を隠せなかったという。

孫皓の擁立に最も尽力した重臣二人は、後悔の念を口にしたことを讒言されて誅殺。続いて孫休の皇后であった朱氏と孫休の四人の息子も殺害された。

外には晋の脅威、内には異民族の反乱を抱えるだけに、孫皓も政治と軍事を疎かにしたわけではないが、反対の多かった建業から武昌への遷都(15か月で撤回)を強行したのを始め、権力の恣意的運用を連発した。

自身の愛妾が市場に人をやって強奪を働いたときもそうである。市場を司る陳声がこれを法によって処罰すると、孫皓は別のことにかこつけて陳声を処罰。焼いたノコギリで首を切り落としたうえ、遺体を山の麓に廃棄させた。

ささいなことで地方官を処罰することもざらで、左遷で済めばましなほうだった。宮廷内も安全ではなく、孫皓は宮中に川を引き入れ、後宮の宮女の中におのれの意に染まぬ者がいると、殺してその川に流した。

また、酒宴の場では群臣を酔いつぶれるまで飲ませるのが常で、その際に側近十人だけには酒を与えず、過失を取り締まる役目とした。

泥酔すれば、失態をおかす可能性が高まる。気が大きくなって、不満そうな顔つきをした者、妄言をはいた者などはすべて摘発。罪の重さに比例した罰が即座に与えられた。

対象が明確ではないが、顔の皮膚を剝ぎ、目玉をえぐるなどの処罰もよくやった。さらには不要不急の土木工事のため民衆を労役に駆り出すことが重なったことで、上下の人心が離れた。

かくして280年に晋が三方から攻め寄せてきたとき、降伏する武将が相次いだせいで、呉はあっけなく滅んだという。だが、孫皓がラストエンペラーであるがゆえに悪く描かれた可能性もあるため、「三嗣主伝」の記述は話半分くらいに受け取るのがよいだろう。

劉禅と同じく、孫皓も洛陽へ護送されたのち、帰命侯の号と生活の糧としては十分すぎる田地と穀物、銭、絹、綿を与えられるが、北方の水が合わなかったか、孫皓は4年後の284年に永眠している。

【島崎晋(歴史作家)】
昭和38年(1963)、東京都生まれ。 立教大学文学部史学科卒。東洋史学専攻。卒業後、 旅行代理店勤務を経て、出版社で歴史雑誌の編集に携わり、 現在は歴史作家として活動中。著書に『覇権の歴史を見れば、 世界がわかる─争奪と興亡の2000年史』 『まるわかり中国の歴史』などがある。  

 

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