建武の新政と称される後醍醐の政治はうまく運ばない。わけても武士たちの不満が渦巻いた。そこへ幕府再興をもくろむ北条の遺臣たちが高時の遺児時行を押し立て挙兵、鎌倉を占領する。中先代の乱だ。
これを平定すべく尊氏は鎌倉に進軍。が、武士の領袖(りょうしゅう)たる彼の不穏な存在を警戒していた後醍醐の引き止めに逆らっての出撃だったため、逆賊とされてしまう。
叛乱の鎮圧に赴いたのに朝敵になったのは悲劇というべきか、喜劇というべきか。難なく鎌倉を奪還した尊氏は、後醍醐が派遣した新田義貞の追討軍を東海道で撃破して入洛する。が、奥州から疾風の如く追撃してきた北畠顕家軍に背後を衝かれ、かつての平氏よろしく西国へと落ち延びてゆく。
尊氏からの密使が、逼塞(ひっそく)する光厳のもとに現われたのはこの時である。待っていたかのように光厳は求めに応じ、新田義貞追討の院宣を密使に書き与えた。天皇ではないから詔勅は出せない。が、上皇であるからには院宣なら出せる。
かつて自分を裏切った尊氏を自らの武将として麾下(きか)に配する──。どのような思いだったろうか。尊氏の裏切りで悲劇に遭った。蓮華寺の惨劇、天皇でなかったことにもされた。
いや、私怨に惑わされてはならぬ、と光厳は自らを戒めただろう。後醍醐こそ真の敵。その王政復古の野望が戦乱を招いた。敵の敵は、味方だ。
決断の心境を窺わせる和歌がある。
「神に祈る我が禰宜事(ねぎごと)のいさゝかも我がためならば神咎めたまへ」
私怨ではなく、私利私欲でさえもない。では何か。石清水八幡宮に写経を奉納した祈願文に、その答えが見つかる。
「願はくは三界流転の衆生(しゅじょう)を救はしめん」
衆生──後醍醐が招いた乱世に苦しむ民のためだ、と。
院宣を得た尊氏は朝敵の身から一転、官軍となった。錦の御旗を掲げて九州での戦いに勝利するや反転攻勢に出る。官軍同士が激突した摂津湊川の戦いで新田義貞、楠木正成を撃破できたのも、錦の御旗を高々と翻し得たればこそ。
もちろん光厳も勝利者だった。弟(光明〈こうみょう〉天皇)を即位させて自らは院政を開始。尊氏を征夷大将軍に任命し、幕府を開かせた。
後醍醐は逃れた先の吉野で自分はまだ天皇だと強弁するも、2年と経たず崩御。どちらが勝者でどちらが敗者かは瞭(あき)らかであろう。
政治の実権の大半を武家に奪われつつも、光厳は叔父の花園上皇から託されたグランド・デザインを具現すべく、力を傾けてゆく。『誡太子書』は幕府を前提とし、つまり武家政権の存在という現実、現状を受け容れた上で、新しい時代の天皇のあるべき姿を提案したものだ。
権力は減じたものの、権威を失うわけにはいかない。とりわけ文化的権威を。光厳の努力の畢生(ひっせい)の精華というべきが勅撰和歌集だ。『古今和歌集』から数えて17番目の『風雅(ふうが)和歌集』を光厳は自らの手で編纂するのである。
勅撰和歌集は21を数えるが(二十一代集という)、天皇・上皇による親撰は、花山院『拾遺和歌集』と、この『風雅』あるのみ。収録の御製(ぎょせい)から一首を掲げよう。
「をさまらぬ世のための身ぞうれはしき身のための世はさもあらばあれ」
通常、三句切れと解釈されるが、私見では二句切れではないかと思う。この身は、治まらない乱世のためにこそあるのだ。自分のための世などという嘆かわしい考えなど、わたしにはかかわりのないことだ──。
院政開始から12年、弟に代えて息子の崇光(すこう)天皇を即位させ、持明院統による皇位継承の一本化も実現し得た。皇太子には叔父花園の嫡男直仁(なおひと)親王を据える。
いわゆる「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」の勃発は2年後のこと。尊氏の弟・直義と謀臣高師直(こうのもろなお)の権力争いで始まり、尊氏・直義の兄弟対決にまでエスカレートした。
尊氏は何と南朝に降伏を申し出る。後醍醐の後は、息子の後村上が天皇となって反幕軍事行動を継続していた。直義の拠る鎌倉へ進発する以上、南朝という後顧の憂いを断っておく必要が尊氏にはあった。
光厳には第二の裏切りに他ならず、事実、尊氏が大軍を率いて鎌倉に向かうと、軍事的にガラ空きになった京都に南朝軍がなだれ込み、光厳、光明、崇光、直仁の4人の身柄を拘束、拉致した。
上皇、天皇、さらには皇太子までを奪うことで持明院統を根絶やしにしようというのである(後伏見、花園は已に歿〈ぼつ〉)。
光厳らは、当時南朝が拠点を置いていた大和国賀名生(あのう)、河内国金剛寺へと連行され、長く辛い幽閉の日々が始まる。
南朝の一方的な京都占領で「降伏」は無効と見做した幕府側は、直義を倒すや京都を回復。身を潜めていた光厳次男の、崇光天皇には同母弟に当たる弥仁(いやひと)親王を即位させ(後光厳天皇)、北朝を再建する。
曲がりなりにも光厳の皇統は繫がった。もしも弥仁が皇太子だったら、皇太子はパブリックな存在だから居場所を容易く探知され、拉致されていたことだろう。
光厳が甥の直仁を皇太子にしたのは単なる僥倖(ぎょうこう)か、あるいは乱世の先の先を洞察した賢帝の深謀遠慮かは意見の分かれるところだが、「『室町幕府に翻弄された皇統』の実像」という副題がある『北朝の天皇』(中公新書)の著者石原比伊呂(ひいろ)氏が、光厳を形容して「トリッキー」の語を3度までも用いているのは実に意味深長である。
南朝による幽閉は足かけ6年もの長きに及んだ。解放されて京都へ戻ったのが45歳の時。後光厳は親政しており、光厳が院政を敷ける状況ではなくなっていた。
かくて光厳の戦いは終わる。禅に帰依して丹波の山寺の住持となり、波乱多き生涯を閉じた。享年52。南北朝の合一が成就するのはその28年後で、合一とはいうものの、事実上は北朝が南朝を吸収合併したに等しい。崩御後ではあれ、光厳の願いは叶ったのである。
これほどの英主がなぜ影薄き存在となったのか。150年ほど前までは、第97代と「歴代」天皇に数えられていた。明治末年(1912)の「南北朝正閏(せいじゅん)問題」で南朝が正統とされ、光厳は北朝初代なる別扱いにされたのが原因だ。
しかし、後醍醐の南朝は敗れ去り、尊氏の足利幕府も15代、200年余りで滅んだ。光厳の皇統だけが連綿として現代に続く。その子孫である今上陛下が『誡太子書』を皇太子時代よりご愛読あらせられる由、幾たびか報道されているところである。
【荒山徹(あらやま・とおる)】
昭和36年(1961)、富山県生まれ。上智大学卒業後、新聞社、出版社勤務を経て作家に。平成11年(1999)、『高麗秘帖』でデビュー。
『柳生大戦争』で舟橋聖一文学賞を、『白村江』で歴史時代作家クラブ賞作品賞を受賞。また、『白村江』は「週刊朝日2017年歴史・時代小説ベスト10」で第1位を獲得。主な著書に、『十兵衛両断』『徳川家康(トクチョンカガン)』『秘伝・日本史解読術』などがある。