それから8年の歳月がすぎて迎えた、承久の乱(1221年)。
こちらは、武家政権が確立し、中世が幕開けするきっかけとなるので、北条氏にとっても日本史にとっても、非常に重要な戦いだ。朝廷と戦うため、鎌倉から都へ行く道中、泰時は休憩がてら酒宴を開いた。
そこへ、御家人が援軍に駆けつけてくれた。当時、朝廷と戦う意思を明確にしていた武士は少なかったので、感激した泰時は自分の使っていた盃を与えて御家人に酒をふるまった...て守れてないじゃん、飲まずの誓い! どうして毎回大事な戦いの前に酒を飲んじゃうの、泰時!
『吾妻鏡』は、偉い人は普通ここまで丁寧に御家人を歓迎しないと、いい話っぽくまとめているけど、酒を飲まないと誓った人が酒宴開いているから!
飲まないと言いつつ、結局酒を飲んでしまう。ミスター善人は、典型的な酒呑みだ。そんな泰時だが、何かと感激屋でもある。
泰時晩年の逸話だが、彼は孫の時頼に流鏑馬の稽古をつけてもらうために、弓の名人である海野幸氏を呼んで指導してもらった。この時、幸氏はその昔、西行から教わったという流鏑馬の極意を語り始めた。
西行と言えば、『百人一首』にも和歌を選ばれている有名な歌人だが、出家する前は武士だったので、流鏑馬の極意を知っていたのだ。そして、彼の話を聞いた泰時は感激のあまり、さらにたくさんの流鏑馬に関する武芸の話を聞きまくった。孫そっちのけで。
泰時、大はしゃぎだ。感激屋以外の何者でもない。酒呑みで、しかも感激屋。言い換えれば、泰時はかなり単純素朴な人物だ。
『吾妻鏡』の作者が「泰時様は飾らない人柄だったんだぞ!」という意図の下に書いていたなら、まんまと術中にはまったことになるが、どうもそんな感じはしない。
更新:11月22日 00:05