北条泰時墓所(鎌倉市大船 常楽寺)
鎌倉幕府の公式歴史記録書である『吾妻鏡』。物語性が薄いはずの歴史書であるが、よく読んでみると、鎌倉幕府に関わった人物たちの個性豊かなエピソードが数多く記載されている。本稿では、二日酔いで戦に出陣していたという武将・北条泰時のエピソードを紹介する。
※本稿は、羽生飛鳥著『『吾妻鏡』にみる ここがヘンだよ! 鎌倉武士』(PHP研究所)より、内容を一部を抜粋・編集したものです。
北条泰時(1183―1242)
北条義時の長男。鎌倉幕府三代執権。武士初の法令・御成敗式目を制定したことで有名。
『吾妻鏡』は北条氏びいきの立場で書かれているらしい。そのせいか、鎌倉幕府三代執権にして、北条義時の息子の泰時の人物像は、かなり美化されているようだ。
代表的なものに、「源頼家がやんちゃする→泰時が注意して周囲から褒められる」という定番の流れがある。ようするに、『吾妻鏡』は二代将軍の頼家を泰時の引き立て役として書いているのだ。将軍の使い方、ひどい。
頼家抜きでも、泰時は少年時代に源頼朝に褒められて剣をもらっただの、元服の時に頼朝に格別に目をかけられていただの、鼻につくほど美化されている。褒美や遺産をもらう時も、辞退して見せて、かえって周囲の称賛を集める。もはや、ミスター善人だ。
ここまで美化されていては、実像が歪曲されていそうだが、けっこうがっかりな逸話を記しているところがある。
例えば、和田合戦(1213年)に関する泰時の逸話だ。この和田合戦は、鎌倉幕府初代侍所別当(軍事長官)の和田義盛が起こした反乱で、この合戦の前段階で、義時はあらゆる手段を使って和田を挑発していた。
それというのも、北条は和田の持つ侍所別当の地位がほしかったからだ。頼朝の死後、北条氏が鎌倉幕府の実権を握るために有力御家人の排除をどんどん行なっていったが、和田合戦もその1つである。和田はまんまと義時の挑発に乗り、一族郎党を率いて鎌倉幕府の御所に攻め入った。
この戦いに、北条氏は勝利。これにより、義時は侍所別当の地位をゲット。さらには「侍所別当の和田さんを倒せるなんて、北条氏強い!」と鎌倉武士達の信望も集められたので、幕府は完全に北条氏に掌握された。
つまり、北条氏にとって和田合戦は重要な戦いだった。だから、義時の長男である泰時も、もちろん参戦した。二日酔いのままで。
噓だろう、泰時!と思うお方もおられるだろう。これについては泰時本人が「宴会があって酒を飲んだ次の日に和田合戦があって、武装して馬に乗ったが二日酔いで朦朧としていた」と、合戦終了後に告白しているので間違いない。
しかも、戦いの最中にも、家来からもらった酒を飲んでしまったと告白。ミスター善人らしく泰時は反省し、もう二度と酒を飲むまいと誓った。
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更新:11月22日 00:05