昭和9年(1934)11月1日、画期的な特急列車が運転を開始した。あじあ号である。満鉄がその看板とすべく技術の粋を集め、世に送り出した列車だった。
運転されたのは昭和18年(1943)2月までの8年4カ月だけだが、80年近く経った今日でも、満鉄と言えばまずイメージされるのがこの列車であり、人々に与えた印象は強烈なものであった。
専用の機関車、パシナ形は動輪直径が2000ミリで、欧州の花形機関車と肩を並べている。外観は当時流行の流線型カバーで覆われ、藍色(諸説あり)に塗装されていた。何しろ見た目がカッコよく、一般の列車との差が大きかったので、現代の新幹線など足元にも及ばない人気だったようだ。
客車の方も、専用に設計された流線型である。一般に満鉄の客車は内地の国鉄よりサイズが大きく、車体の長さが20〜24メートル、幅が3.1メートル(当時の国鉄客車は2.8メートル)ほどであった。
満鉄の1等寝台車などは欧州に倣ったのか、区分室(コンパートメント)式が多いが、あじあ号は昼行列車なので寝台車はなく、全て開放式の座席車である。1、2等車は回転機構のある2人掛け座席で、窓に向けて固定することもできた。
ただし、リクライニング機構はまだなかった。3等車はゆったりしたボックス席である。最後尾7両目は展望車で、曲面ガラスが使われた展望サロンには、12人分のソファが置かれていた。
特筆すべきは、窓が固定された完全空調だったことである。世界でもまだ非常に珍しく、国鉄で冷房を装備していたのは超特急燕 の食堂車ぐらいという時代である。居住性は群を抜いていた(ただし、結構故障もあったらしい)。
当時の写真を見るに、座席をリクライニング化するだけで、現代でも充分看板列車として通用しそうだ。最高速度は130キロ、大連〜新京間の表定速度84キロ。現代のJR在来線の特急電車と同等である。
さすがに130キロとなると、前方視界の狭い蒸気機関車では、地上の信号を見過ごす恐れが出てくる。ご承知の通り新幹線では自動列車制御システムにより、速度信号が運転室に表示されるが、あじあ号も自動制御のような高度な仕組みではないものの、機関車の運転台に信号が表示されるようになっていたそうだ。
これだけスペックの高い列車を走らせるには、その安全運行を支えるための様々な技術が必要であり、満鉄はそれを実行していたのである。しかも、計画決定から運行開始まで、たった1年2カ月で全てをこなした。満鉄技術者の水準がいかに高かったかを示す事実だろう。
昭和20年(1945)8月、満洲国崩壊と共に満鉄も消滅した。あじあ号も、二度と復活することはなかった。だが、当時の国鉄の一段上を行っていた満鉄の技術は、形を変えて現代の鉄道にもどこかで引き継がれている。
更新:11月22日 00:05