2021年12月03日 公開
2022年07月07日 更新
※本稿は歴史街道2021年12月号より一部編集のうえ、掲載したものです。
戦前、日本とアメリカとの関係を良好に保とうと心血を注いでいたのは、外交官や駐在武官ばかりではない。
民間の立場でありながら、積極的に行動していた人物もいた。大河ドラマ『青天を衝け』でおなじみの渋沢栄一もその一人である。
明治以降、経済界を牽引してきた渋沢だが、その後半生、特に力を注いだのが民間外交だった。
日清戦争、日露戦争に際し、渋沢は反戦の立場を貫いてきた。しかし日本はこの2つの戦争に勝利し、ますます勢いづいていく。
明治政府の時から掲げられていた「富国強兵」というスローガン。このままでは「富国」が置き去りになり、「強兵」ばかりが先行することに危機感を覚えた渋沢は、日本と諸外国との関係を深めようとする。
明治35年(1902)、62歳で欧米視察のために渡海、各国の実業家たちと交流し、米セオドア・ルーズベルト大統領とも会談した。このときアメリカのカリフォルニアで渋沢が感じたのは、日本からの移民に対する差別的な雰囲気だった。
その後、アメリカで強まりつつあった排日運動の鎮静化を目指し、渋沢は何度も米国へ赴く。また、サンフランシスコで大地震が起こった際には、多額の義捐金を送った。
明治42年(1909)とその翌年には日米の実業家の相互訪問を実現させ、大正5年(1916)には日米関係委員会を設立。アメリカ各界のリーダーを招いて対話を行ない、相互理解の場をつくった。
しかし大正13年(1924)、アメリカでは「排日移民法」が成立――。両国間に緊張が走る中、渋沢は広い視野から日米関係の重要性を説き、活動を続けた。
大正14年(1925)、アジア・太平洋地域の民間レベルでの相互理解を促進するため、太平洋問題調査会がハワイにつくられ、渋沢は日本支部の評議会会長に就任。またこの頃、民間の国際交流団体が数多くつくられてもいるが、そのほとんどに携わっている。
昭和2年(1927)には、宣教師ギューリックからの提案に賛同する形で、アメリカから青い目の人形約1万2千体を受け取り、日本の子供たちへ配布している。その経費のほとんどを渋沢が担った。
さらにお返しとして、アメリカの子どもたちへ市松人形を送るなど、子ども世代での国際交流も後押しした。
悪化する日米関係を憂い、その改善に力を尽くした渋沢だったが、昭和6年(1931)11月11日、91歳でこの世を去る。
それは、日米開戦へと向かう端緒ともいえる満洲事変が起きた、2カ月後のことであった。
参考文献:渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』、鹿島茂著『渋沢栄一 下 論語篇』他
更新:11月21日 00:05