歴史街道 » 本誌関連記事 » 傀儡か賢君か…最後の源氏将軍・源実朝の「知られざる実像」

傀儡か賢君か…最後の源氏将軍・源実朝の「知られざる実像」

2020年12月18日 公開
2022年06月02日 更新

坂井孝一(創価大学文学部教授)

 

実朝と義時

最後に、実朝と義時・政子との関係についてみておこう。まず、義時である。守護交代制の記事の直前、『吾妻鏡』承元3年(1209)11月14日条が参考になる。

同日条によれば、「相州」義時は自分の「年来の郎従」のうち功労のあった者を「侍に准ずべきの旨、仰せ下さるべきの由」、つまり御家人である義時の従者に過ぎない郎従を、御家人の身分である「侍」に准じるよう実朝から命じてほしいと望んできたという。

これに対し実朝は、幕府内の身分秩序を乱す基になるとして「永く御免あるべからざるの趣、厳密に仰せ出さる」、郎従を侍に准ずることは今後も永く許すことはないと厳密に命じたのであった。

北条氏に対する顕彰が甚だしい『吾妻鏡』の記事であるだけに、逆に信憑性があるといえよう。

義時は1週間前の11月7日、切的を射る勝負の「負方」が主催した酒宴で大いに興を催し、そのついでに「大官令(大膳大夫)」広元とともに「武芸を事とし、朝庭(廷)を警衛せしめ給はば、関東長久の基」、

つまり武芸を重視し朝廷をお守りしていれば、幕府が長く続く基になると実朝に「諷詞」を尽くしていた。

酒に酔った勢いで、誕生の時から知っている29歳年下の甥に、つい人生経験を語ってしまったのであろう。

兄頼家と違い、さほど武芸が得意でなかった実朝はおとなしく聞いていたのではないか。義時の補佐と支持は将軍親裁に不可欠であり、また義時という人物とその能力に信頼を寄せていたからであろう。

ただ、たとえ信頼する叔父、御家人筆頭の執権とはいえ、実朝は主君たる将軍、義時は御家人に過ぎない。

幕府内の身分秩序を乱すような要求を主君として認めるわけにはいかない。実朝の毅然とした対応を受けて、義時は思わず気を引き締めたのではなかったか。

 

政子の立場と力

では、実朝と政子との関係、政子の立場とはどのようなものだったのか。実朝の暗殺後、政子が「尼将軍」として活動したことはよく知られている。

また、田辺旬氏・菊池紳一氏によれば、政子は、実朝が将軍親裁を本格化させていた建暦元年(1211)以降、

「二位家御時広元奉書」「二位殿御教書」「右大臣家御下文幷二位家和字御文」「右大臣家御下知幷二位家御下文」「鎌倉右大臣家幷二位家御下知状」「右大臣家幷二位家御成敗」と呼ばれる仮名書きの奉書を発給していたとする。

特徴は「右大臣」実朝と「二位家」政子が一組にされている例が多いこと、実朝が右大臣、政子が従二位になるのは建保6年(1218)であり、後世に作成された文書や目録に証拠文書として引用されていることである。

最初に挙げた「二位家御時広元奉書」は、中原広元が政子の「仰せ」を奉ったことを「あまこせん(尼御前)よりおほせ(仰せ)くたされ(下され)て候」という文言で示して発給した奉書である。

「右大臣家御下文」と組み合わされておらず、政子一人の「仰せ」である。

内容は東大寺領美濃国大井荘の「しもつかさ(下司)」職の相論について、「地頭をさり(避り)て御てら(寺)へまいらせたれば、御さた(沙汰)候ましきよし(由)」

すなわち地頭職を放棄したので、幕府には裁許の権限がないと東大寺に伝えたものである。

政子が京都周辺の寺社権門との交渉を一任されていたこと、地頭職の停止や相論の裁許など、将軍権力に関わる権限を有していたことをうかがわせる史料である。

また田辺氏は、受給者が小早川氏・田代氏・加藤氏であることや、自分を頼ってきた岡崎義実に所領を給付するよう頼家に進言した事例などから、「政子が、頼朝挙兵以来の御家人の家に対して、所領の保障について配慮」していたとする。

実朝より上の世代、頼朝期以来の御家人の一部に対して政子が実朝の代わりに権限を行使し、実朝もそれを容認していたのではないか。さらに菊池氏は、実朝と政子が一組にされているのは「政子が発議した案件」で、将軍家政所下文と政子の仮名奉書がともに下されたと推定している。

岡崎義実の例のように、政子は困窮する御家人や政変で殺された人の遺族に憐れみをかけ、闕所地を融通するなど温かみのある配慮をした。

それは頼朝亡き後の源家の家長としての行動にも表れている。たとえば、幼くして父頼家を失った公暁への心遣いである。

元久2年(1205)12月2日、政子は6歳の公暁を鶴岡八幡宮二代別当尊暁の門弟とし、建永元年(1206)6月16日には政子亭で着袴の儀を行った。

また『吾妻鏡』同年10月20日条によれば、「尼御台所の仰せによって」公暁は「将軍家の御猶子」となり、初めて将軍御所に入御、「御乳母夫」三浦義村が贈り物を献じたという。

将軍と擬制的親子関係を結ばせて後援したのである。頼家の遺児に対する源家家長としての温情であった。

さらに、政子は大姫の死後、立ち消えになっていた全成・阿波局の娘と三条公佐との婚姻を成立させたと思われる。

『尊卑分脈』に「母悪禅師の女」と記される三条実直の生年は、『公卿補任』から承元3年(1209)と判明する。とすれば、公佐と全成の娘は承元2年(1208)前には結婚していたはずである。

建仁3年(1203)の阿野全成誅殺後、政子は頼朝の遺志を実現させることで、後家となった妹阿波局の心をも安んじようとしたのではないか。無論、これは同時に、北条の家格上昇、京都人脈の形成に資することでもあった。

以上、擁立された鎌倉殿・将軍だった実朝が成長を遂げ、自ら主体的・積極的に裁決を下す将軍親裁を開始し、執権や宿老の補佐と支持を受けつつ安定した幕政運営を行ったことをみてきた。

「源氏将軍の確立」はまさに実朝によって果たされたのである。

 

歴史街道 購入

2024年12月号

歴史街道 2024年12月号

発売日:2024年11月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

源実朝~暗殺された鎌倉幕府3代将軍、悲運の生涯とその後

1月27日 This Day in History

鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?~歴史における「引き金」を引いた後醍醐天皇

山本博文(東京大史料編纂所教授)

尼将軍・北条政子~はたして幸せな生涯だったといえるのか?

7月11日 This Day in History