2020年06月16日 公開
2022年12月07日 更新
信長死後の織田家における後継者争いで、羽柴秀吉と柴田勝家が賤ケ岳で激突した。佐久間盛政は伯父・勝家に代わって全軍の指揮をとり、惜敗して30歳で死んだ。
その頭脳戦ともいえる、秀吉と盛政の戦いは、戦国時代きっての名勝負といわれている。
盛政は加賀金沢城の初代城主で、武勇にすぐれ、気骨ある武将だった。だがその初陣は、実に悲惨なものだった。
信長に一族をあげて仕えた佐久間家にあって、盛政の父盛次は足利義昭を戴き、上洛する織田軍の中にあった。盛政は『佐久間軍記』には、「佐久間玄蕃允初陣」とある。15歳だった。
近江観音寺城の六角承禎を攻める中で、盛政は、盛次の従兄弟で、信長の信頼が厚い信盛麾下に属し、観音寺城の向かいにある箕作城攻略戦に、父盛次とともに加わった。
盛政は父に遅れまいとひたひたと堀際につけ、一番手柄をめざした。だが父は盛政の見ている前で、敵勢に襲われて討ち死にしてしまった。
織田軍は箕作城を攻略し、京都への道を開いたものの、盛政にとっては最悪な初陣となった。
盛政の母は柴田勝家の妹・末森殿だったため、勝家が親代わりとなった。父の戦死から3年後の元亀2年(1571)9月、盛政は、近江金森の一向一揆の鎮圧軍に身を置く。
夜明け前に敵陣の枝折垣に達して切り崩し、敵首を取った。この時、前田利家の家臣・村井長頼も敵を倒し、一番首は同時であった。
11歳年上であり、戦い慣れした長頼は、すぐに信長に見せて一番首の恩賞に南蛮笠を貰った。
ところが盛政は、どうしても最初に勝家に見せたいと探し回り、やっと見つけて一番首を見せ、勝家に喜んでもらった。このため信長への申告が遅れ、一番首の栄誉を逃してしまったのだ。
まだ戦慣れしていなかった18歳の盛政の、初々しく、微笑ましい手柄話である。
更新:11月24日 00:05