ここで、後の皇統の創始者となる中大兄皇子と摂関家藤原氏の祖、中臣鎌足が登場します。蘇我氏の専横に不満を持っていた二人は、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂も味方に引き入れます。そして645年6月、朝鮮三国が倭王に貢ぎ物を献上する儀式の最中、蘇我入鹿を斬殺します。これが乙巳の変です。
なぜ、このようなことをしたのでしょうか。現在では、国際情勢の変化が重視されています。当時、唐は高句麗遠征を行っており、朝鮮三国でも政変が相次いでいました。こうした危機的な情勢の中、蘇我氏が権力を握っていては半島情勢に迅速に対応することができない、天皇を中心とした新しい政権を作らなければならない、という焦燥感があった、という説です。
確かに背景としては、国際情勢もあったでしょう。しかし、この事件は、もっと直接的な権力争いだったように思います。
中大兄は、父が舒明、母が皇極です。天皇になる十分な資格を持っています。しかし、蘇我氏が異母兄の古人大兄皇子を支持している以上、天皇になれる可能性はほとんどありませんでした。そこで、入鹿を殺し、蘇我氏を滅亡させることによって、その可能性をつかもうとしたのではないでしょうか。
中大兄は、入鹿の罪状として、「天皇に取って代わろうとしたのだ」と皇極天皇に言っています。しかし、入鹿は、斬りつけられた時、皇極天皇に「私が何をしたというのでしょうか」と命乞いをしたということです。天皇や皇族を殺害することはあっても、それは蘇我氏に都合のよい皇族を即位させるためのもので、入鹿に皇位を簒奪しようという気持ちがあったとは考えにくいところです。これも、中大兄が自分の行為を正当化するために言ったことに違いありません。
入鹿が殺された後、蝦夷も自邸で自害し、稲目以降、権力を握ってきた大臣(おおおみ)家の蘇我氏は滅びます。
この後の歴史の推移を見れば、この事件の本質が見えてくるように思います。
皇極天皇は、中大兄に譲位することを伝えますが、中大兄は、鎌足と相談して叔父の軽皇子を推薦します。
もし、中大兄が天皇権力の強化だけを目的にしたのであれば、兄の古人大兄を天皇に立てるのがもっとも理にかなっていますが、そうはしませんでした。とりあえず叔父を天皇に立て、古人大兄に皇位を継がせるつもりはないことを示したわけです。
自分が危険な立場にあることを自覚していた古人大兄は、飛鳥寺で剃髪し、吉野に去ります。こうして軽皇子が即位して孝徳天皇になります。
しかし、中大兄は、古人大兄をそのままにはしませんでした。謀叛の企みがあるとして、吉野に兵を出して古人大兄を討ちます。中大兄に協力していた倉山田石川麻呂もまた、中大兄によって討たれます。
654年、孝徳天皇が没すると、皇極天皇が重祚そし、斉明天皇になります。まだ中大兄は即位しません。孝徳天皇の皇子である有間皇子も、皇位継承の有力者だったというだけの理由で、謀叛の疑いがかけられ処刑されます。
このように、中大兄のライバルはすべて抹殺されています。乙巳の変に始まる一連の事件は、中大兄の謀略だったと考えていいと思います。
乙巳の変の後、皇太子だった中大兄のもとで行われた国制改革が「大化の改新」です。豪族の私有地・私有民である田荘(たどころ)・部曲(かきべ)を廃止して、公地公民制への移行をめざしたものです。
公地公民制とは、それまで豪族や皇族の支配下にあった土地と人民を国家のもとに置くというものです。人民と土地を把握する戸籍・計帳の作成も、人民に土地を貸し与える班田収授の法も、この改革で定められました。
ただし、『日本書紀』に載せられている「大化改新の詔」は、のちの「大宝令」などによる潤色が多く見られることから、どこまで本当かがよくわかりません。そのため、「大化の改新はなかった」という説もあります。
乙巳の変は中大兄の権勢欲から起こったものだと言いましたが、なぜ権力を欲したかと言えば、こうした天皇中心の中央集権国家を作ろうという強い意志があったからだと説明することができます。有力氏族であった蘇我氏が滅びたのですから、ほかの豪族の権力も削減されていったことは確かで、こうした改革ができる下地はできていました。
中大兄時代の国政改革の実体はよくわからないのですが、天皇中心の国家に向けた動きがあったことは否定できません。
更新:11月22日 00:05