明治政府は発足すると、朝鮮王朝(李氏朝鮮)に開国を求めていきます。
当時の朝鮮には資源も購買力もなく、貿易のうまみはありません。それでも開国を求めたのは、ロシアの南下を食い止めるために、朝鮮の近代化が必要だったからです。
ようするに、朝鮮が日本の防波堤となるよう、近代化の支援をしていこうというのが、一番の狙いでした。
明治政府は、1875年の江華島事件を機に朝鮮を開国させると、朝鮮国内の開化派と呼ばれる、明治維新に範を取って近代化を進めようとする人々を支えていきます。
その開化派を疎んじたのが朝鮮王朝の政権側で、両者の間に軋轢が生まれました。やがて政権側の閔妃一族は、大国・清国に助けを求めます。大国清国に事える勢力なので、これを「事大党」と呼びます。
こうして、朝鮮国内で親日派の開化派と、親中派の事大党による内紛が起き、清国は事大党と結託して内政干渉を繰り返しました。
このままでは朝鮮の近代化はできず、ロシアに飲み込まれるのは時間の問題です。そうなれば、ロシアの勢力は対馬海峡までおよび、日本の存亡を揺るがす事態となります。
そこで先手を打って、多少手荒なことをしてでも朝鮮を近代化させようと日本が動いて起きたのが、1894年の日清戦争でした。
日清戦争で勝利を収めた日本は、清国からの朝鮮独立、賠償金支払い、遼東半島の割譲などを定めた下関条約を結びます。
しかしここで、横槍が入りました。ロシア、ドイツ、フランスが、日本に対して共同声明を出すのです。
遼東半島を清国に返還せよ、日本が応じない場合にはいかなる手段をも取るだろう──。
いわゆる三国干渉で、三国相手に勝算はないと、伊藤首相・陸奥外相はやむなくこれを受け入れ、遼東半島を清国に返しました。
ところがその遼東半島を、ロシアが清国から租借してしまうのです。
これを見て、下関条約で清国から独立したばかりの大韓帝国は、ロシアに「事大」して日本に対抗しようとします。このままだと、ロシアがどんどん大韓帝国に入り込んでくるのは明白でした。かくして日本は、ロシアとの戦争に踏み切ることになるのです。
もっとも、国力などから見ても、勝ち目はありません。そこで、日本はイギリスに支援を頼むわけですが、イギリスも、南アフリカでボーア戦争に忙殺されていました。
極東に力を貸すひまはない。かといって、日本がロシア領となるのも困るので、1902年、イギリスは日英同盟を締結します。
これはイギリスが参戦するというわけでなく、「ロシアと日本が交戦中、イギリスは好意的中立を保つ」というものです。
ただし、ロシアはフランスと同盟を結んでいるので、もしフランスが参戦した場合は、イギリスも日本とともに戦うとしました。
イギリスから見れば日本は将棋の駒みたいなもので、勝てばいいけれど、負けても日本が滅びるだけで、あくまで利害関係から同盟を結んだに過ぎないのです。
※本稿は、歴史街道2019年7月号特集『日清・日露戦争 名将の決断』より、一部を抜粋、編集したものです。