2019年02月08日 公開
2023年01月05日 更新
豊臣秀吉は、同年3月を期して九州征伐を実施しようと計画していたが、いままさに大友氏の領国が風前の灯火となってしまったため、一人善戦している志賀親次に感状を送り、自分が来援するまでもちこたえるように励ましている。
2月に入ると、秀吉の大軍が到着するという噂がしきりに流れ、豊後国内の空気が変わりはじめた。こうした追い風を背に、なんと志賀親次は反攻に転じる。
2月15日、志賀軍は1500で敵の籠もる小牧城を落とし、敵将・丸田強兵衛を倒し、さらに28日、滑瀬の戦いで島津勢を破り、鬼ヶ城を奪回したのである。
3月、ついに待ち望んだ豊臣軍が豊後に上陸してきた。すると、半年近く同国を蹂躙していた島津軍は、すばやく撤収していった。かくして、大友氏は滅亡を免れたのである。秀吉は善戦した志賀親次にたびたび感状を与え、その活躍を大いに讚たたえた。また、主君の大友義統も、その働きを謝して、直入郡のうちから102貫ぶんを恩賞地として親次に分与した。
同年5月、島津氏は秀吉の大軍の前に敗れ、正式に降伏する。ここにおいて九州征伐は終わりを告げ、大友義統は豊後一国を安堵された。しかし、文禄2年(1593)、朝鮮出兵における不始末を理由に、義統は領国をすべて奪われてしまう。ここに戦国大名としての大友氏の歴史は終わりを告げたのである。
志賀親次は、義統とともに落ちぶれてしまうことはなかった。その戦いぶりを評価した秀吉から日田郡大井庄に1000石を与えられ、豊臣家に仕えることになった。その豊臣家が滅亡したあとも、福島正則、さらに小早川秀秋に仕え、小早川家改易後は肥後の細川氏に採用されたといわれる。
いずれにせよ、味方が次々と裏切り、主君が領国を捨てて逃亡するなかで、一人、大軍を引き受けて負けなかった志賀親次は、知られざる、古今稀なる名将といえる。
※本稿は、河合敦『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月22日 00:05