2019年02月08日 公開
2023年01月05日 更新
親次のすごさは、たんにそうした要塞に籠もって危機をやりすごそうとしたのではなく、積極果敢に相手を撃退しようとしたところにあるといってよい。
島津氏の来襲に先だって、志賀親次は柏原口、大塚口、大戸口など、肥後国からの侵入路12カ所に家臣を配置し、駄原城や笹原目城、鬼ヶ城(すべて現在の大分県竹田市)など支城と連携をとりながら、奇計やゲリラ戦法により、豊臣秀吉本軍の到来まで島津軍を悩ませつづけた。
たとえば、岡城から西に8キロメートル地点にある駄原城を守っていた朝倉一玄(親次の重臣)は、島津方の坂瀬豊前守が攻め寄せてきたさい、城の建物をことごとく破壊して火を放ち、ひそかに城兵を率いて城を脱出する。
駄原城から火の手が上がるのを見た坂瀬豊前守は、「是は定めて手過ち(失火)にてぞ有らん。此騒ぎにいざ乗取らんと勇んで押し寄せ」(『大友興廃記』)、たやすく駄原城を奪取した。
だが、この駄原城は、たんに物見のために造られた要害にすぎず、外からの攻撃にもろい構造だった。つまり、それを知ったうえで、わざと朝倉は城中に坂瀬隊を誘い入れたのだ。こうしておいて親次へ事態を知らせ、岡城から1500人の応援を得て、朝倉は駄原城へ攻め上ったのである。
城中の建物はすべて焼失してしまって隠れるところはなく、島津方の兵士は次々と討たれていった。島津方の大将・坂瀬豊前守は、主従8騎で命からがら駄原城から逃げ出したが、途中、深田に足を取られているところで、追撃してきた後藤大学と後藤市助に追いつかれ、命を落としてしまった。
かたや笹原目城は岡城より12キロメートル西にあり、城代として阿南三右衛門の尉惟秀が100人ほどの小勢で守っていた。そこに来襲したのは、白坂石見守を将とする600の島津兵だった。
阿南は、6倍の敵と戦っても勝ち目がないと判断、おとなしく島津方の将である白坂に降伏して開城した。この折り、阿南は、
「このような少人数で、こんな城に自分を配置したのは、主君の志賀親次が自分を見殺しにしようとしたからだ」
と白坂に不満を漏らし、巧みに相手を信用させ、ついに白坂から笹原目城搦手の守備を任されることになったのである。
そこで阿南は、島津方の隙を見て、ひそかに岡城と連絡をとり、現在の様子を逐一、志賀親次へ伝達した。親次は阿南と戦術を入念に打ち合わせたうえで、中尾伊豆守、大森弾正を大将として1700の兵を笹原目城へ差し向けた。城の大手口に殺到した志賀軍は、後藤美作守率いる足軽鉄砲隊500だった。
阿南は、白坂石見守に対し、
「自分は後藤という男をよく知っているが、戦下手な奴だ。城を出て追い払ってしまうがよい」
とアドバイスした。
そこで白坂が城門を開いて後藤隊へ攻撃すると、あっけなく退却しはじめた。
これに気をよくした城兵がつられて次々と外へ飛び出し、追撃を始めたのである。
だが、これは罠だった。志賀軍は伏兵を置いて待ち伏せており、これに襲撃され、城兵はバタバタと倒されていった。このとき、搦手を守っていた阿南惟秀は、島津方に叛旗をひるがえして城中に火を放ち、搦手から志賀軍を引き入れたのである。
もはや勝ち目がないと思った白坂石見守は城を捨てて逃亡を図るが、志賀方の佐藤右京亮に追いつかれ、討ち取られた。ほかにも謀略によって、親次の部下たちは巧みに島津兵を撃退していった。
また、志賀親次は、
「(島津)義弘陣所に忍びを入れ、度々陣屋に火を放ち焼亡せしめける」(『豊薩軍記』)
とあるように、敵将の本陣に忍びの者を潜入させ、陣屋に何度も放火するという攪乱戦法を展開した。
さらに、刺客や伏兵を多数放ち、南郡一帯に散在する敵兵を捕まえて殺害したり、襲撃したりして、相手を恐怖に陥れたのである。
このため、ついに島津義弘も岡城の攻略をあきらめ、他所へ転進していった。
しかしながら、そのほかの大友家臣団はまことにだらしなく、あっけなく島津氏に降伏してしまった。
秀吉が派遣した仙石秀久・長宗我部元親軍も島津軍に大敗を喫して逃げ散り、当主の大友義統も豊後府内を捨てて、遠く豊前国龍王城(現在の大分県宇佐市)へ逃亡してしまう。
かくして天正15年(1587)正月、大友領内で島津氏に敢然と対抗して気焰を吐いているのは、志賀親次だけとなったのである。
更新:11月22日 00:05