2018年10月01日 公開
2022年08月01日 更新
徳川家康像
雪斎のやったことで最大の功績は、考えようによっては今川義元を補佐したことではなく、徳川家康を育てたことだったかも知れない。静岡に連れてこられた家康は、静岡にいる間じゅう、ほとんど雪斎について勉強した。雪斎は、その性格から、ただ本を読むことや、字を書くことを教えていただけではない。徳川家康が将来独立した武将になった場合に必要な知識や技術を、それも戦略を中心にした知識をとことん教え込んだ。家康は、一所懸命勉強した。
雪斎にすれば、主人の義元よりも、家康のほうがはるかに教え甲斐のある弟子だったのだろう。したがって彼は、自分の知っていることを全部家康に注ぎ込んだ。
のちに「野戦の雄」と呼ばれた徳川家康の基礎は、むしろこの時代に築かれたといっていいのだ。その意味では、子供のころの徳川家康にとって雪斎は、今川義元の場合と同様に、家康のナンバー2でもあったのである。
今川義元の子は、氏真といった。しかし、彼は父の仇を討とうとはせず、父と同じように風流三昧で暮らした。徳川家康は何度か、
「織田を滅ぼしましょう」
と持ちかけたが、氏真は応じなかった。やがて武田信玄に攻められて、国を追われ、徳川家康を頼った。その後は北条家に身を寄せて、居候の身になった。が、そこもいづらくなって、最後は諸国を放浪していたという。まったく「不肖の子」であったのである。しかし、このことも考えてみれば、あまりにも太原雪斎一辺倒で今川家の経営が行なわれていたことに原因があるのかも知れない。ナンバー1であった今川義元も、安心しきって雪斎に何もかも任せ、自分の後継者づくりにもいそしまなかったからである。
「雪斎さんが居てくれるうちは、なんとでもなる」
と考えていたことが、結局は今川家を滅ぼしてしまったのだといえる。その意味では、雪斎というお坊さんも結構罪なことをしたものだと思う。しかし、そうはいうものの、坊主頭にはちまきをして、鎧を着て、戦場を駆けずり回っていた雪斎が、やがて京都の妙心寺に呼ばれて、名のある寺の住職におさまったというのも面白い。やはり戦国時代だからこそ、そういう現象が起きたのだろう。織田信長にも沢彦という妙心寺系のお坊さんのブレーンがいたが、彼は最後まで表に出なかった。岐阜という地名をつくったのも沢彦だし、天下布武という方針を信長に授けたのもこの沢彦である。
※本稿は、童門冬二著『戦国武将に学ぶ 名補佐役の条件』より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月22日 00:05