勝海舟は、人材登用法についてこんなことを言っている。
「ぜんたい、薩摩から樺山資紀だの松方正義だのといって、名高い政治家が出ているのは、何の不思議なこともないのだ。薩摩はその藩主に、斉彬公という名君が出て、その人が非常な英断で、何百年代の門閥を打破して、ごく軽輩なる西郷に、藩政の大権を握らせたのだ。そこで西郷は、鋭意治を図ろうと思って、役に立ちそうな若手の連中を、それぞれその器に応じて、どしどし役人に引き上げて権力を与えてやったから、そこで今の樺山も松方も、その他の豪傑もできてきたのだ。
もしも西郷が因循姑息な人間であって、あんな英断をやることができなかったならば、樺山でも松方でも到底今のような顕要な地位を占めることはできずに、あるいは生涯青二才で終ったかもしれない。大隈でも板垣でもそこをよく考えて、老西郷を見習って、勇気があって役に立ちそうな者は、民間からでもよい、どしどしその器に応じて官を授けてやるがよい。そして一方からは、重く責任を負わせて、いわゆるお役目大事というふうで、若い者をいじめるんだ。
もっとも、ただ若い者をいじめるばかりではいけない。自分でも若い者同様お役目大事と思って、その役目と討死する覚悟になるのだ。そうすれば政務は立派に上がって、かたわら各種異様な豪傑が生まれてくる。それを、もしも大隈重信や板垣退助が依怙ひいきの考えから、自分のかつて率いていた自由党や改進党ばかりから不公平な登用法を行なったら、それこそ大失策だ。その私心さえなく、公平にさえやったならば、今の内閣も国民に歓迎されて、意外に大きな手柄を顕すだろう」
勝がこんなことを言うのは、その西郷にしても、はじめのうちは薩摩藩の重臣達に、青二才と馬鹿にされていたことを知っているからである。
かつて勝は、薩摩藩の重役達といろいろな話をした。その時西郷の名を出した。すると重臣達は、
「え? あの吉之助めのことですか? あれはまだまだ青二才です」
と言って、一言のもとに西郷を切り捨ててしまった。が、二束三文にふり落とされてしまった青二才の西郷は、勝に、
「この男こそ、将来を語るに足る人物だ」
ということを感じさせた。そのきっかけを作ったのは、前に出た名君島津斉彬であった。斉彬が、西郷を勝に紹介したのである。勝は言う。
「こういうわけで、平生、小児視している者の中に、存外非常の傑物があるものだから、上に立つ者は、よほど公平な考えをもって人物に注意していないと、国のため大変な損をすることがある」
こういう人物観をもつ勝は、もう一つ、その人物が凡人であるか非凡であるかを見分けるのに、彼自身の行動から、
「職責を超える仕事ができるかできないか。また、求められたら、そういう職責を超える仕事をやる勇気があるか、ないか」
というものさしで見ていた。というのは、勝の経験では、彼の職責と職務内容が一致するということは、極めて稀だったからである。
彼は幕府からある職位を与えられても、たいていの場合、他の仕事をしていた。その職位に見合った仕事よりも、はるかに重大な任務に就いていた。
例をとってみよう。
例えば28歳頃、彼は私塾を開いてオランダ学を講義していた。しかも、この頃の彼は、大砲や鉄砲の製作までやっていた。身分は幕府の無役である。明らかに職責を超えた広がりをもつ仕事をしていたのだ。
その後、彼は阿部正弘のもとに海防意見書を提出した。これが認められて、外国の書物の翻訳所勤務を命ぜられたが、その身分で、日本国内の海岸を実地に踏査し、海軍の設置を建言している。
この時の彼は、それまでに作っていた人間関係で、大坂や伊勢やあるいは和歌山などで、それぞれの地域の実力者の案内と説明を受けながら、この巡察を指揮した責任者以上の仕事をしている。これも一翻訳官のやる仕事ではない。
また長崎の海軍伝習所にいた時、学生監督程度の身分で、薩摩藩主島津斉彬と会っている。斉彬は、勝を友人待遇にし、自分でもしばしば手紙を書いた。これも明らかに、勝がその時の職責を超えた、いわば、幕府の外交官のような立場で、斉彬と堂々と対していたということだ。
また、神戸に海軍操練所を作り、幕府や各藩の師弟を預かって教育した時、別に私塾を設け、ここに坂本龍馬以下、資格のない若者を全部放り込んで教育した。
こういう奔放なやり方も、明らかに職責を超えている。姑息な幕臣だったら、後生大事に幕府が作った海軍大学の経営と教育に邁進し、私塾を作ってまで、資格のない者を教育するということはしなかったろう。
慶応2年(1866)頃、彼は閉門中であったが、突然呼び出されて、軍艦奉行を命ぜられた。しかし、軍艦奉行を命ぜられながらも、海軍の仕事をするのではなく、長州との講和の談判をした。
つまり、軍艦奉行という資格で外務大臣の仕事をさせられたのである。これも明らかに職責を超える仕事である。
その最大のものは、政府軍に江戸を攻められた時、西郷との腹芸によって、江戸を無血開城した時のことだ。
この時、勝の資格は陸軍総裁である。つまり陸軍大臣であった。老中とか政治総裁のような総理大臣ではない。一武官として、幕府の最高責任者としての仕事をさせられた。これも明らかに職責を超えた仕事をしている。
このように、勝は、常に自分の職責を超える仕事をし続けた。それは、させる側がそれを求めたからである。そういう時、彼は逃げなかった。
「求められれば、自分の職責を超えた仕事でもそれをやり抜く」
という意気に燃えていた。こういう機会がきた時は、逃げずに、どんどん自分の能力を試すべきだ。
そのチャレンジ精神が、まったく未知の天地に、自分の歩いて行く道を拓いてくれる。
※本記事は、童門冬二著『勝海舟の人生訓』より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月21日 00:05