2018年09月28日 公開
2022年06月07日 更新
このあと問題は、もし義満が急死しなかったら、どうなっていたかと言うことです。
まず言えることは、間違いなく義満の太上天皇就位、そして息子の義嗣の天皇即位は成功していたでしょう。
すなわち「足利」天皇の誕生です。
この時代は、天皇家の力が最も弱かった時期です。
それに対して義満は財力も権力もあります。
後小松天皇は、無理矢理位を譲らされ、おそらく上皇の礼遇も与えられず、寺にでも放り込まれたでしょう。
義満・義嗣親子は我が世の春です。
しかし、この体制は決して長続きしません。
話は戻りますが、義満が「急死」したのも、結局この国の中に、天皇家の永続性(万世一系)を断固として守らねばならないという、強い底流があったからです。
それが、天皇家に何らかの危機が訪れた際、フィードバックのような力として働くのです。
ですから、義嗣天皇も、義満上皇が生きている限りだったでしょう。
これにはもう一つ根拠があります。
同じく義満の息子で義嗣の兄である義持の存在です。
義持は父・義満の跡を継ぐ形で4代将軍になっていたのですが、彼は父と弟を憎んでいたのです。
なぜでしょうか。それは義満が晩年に生まれた弟である義嗣を溺愛していたからです。
義嗣が天皇になれば、義持はその下につかねばならないのです。
これは、それまでのようなお飾り的天皇ではありません。
権力と財力を併せもつ、超越的な存在です。ですから、義持はそれを許すことができません。それを許せば、弟の下につく「ただの将軍」になってしまいます。
実際の歴史でも、義持は父の死後、天皇家から義満へ「太上天皇号」つまり「名誉上皇」にするという申し入れがあったにもかかわらず、これを蹴っています。
皇族でも何でもない人間に、太上天皇号が与えられるということは、大変なことです。
前代未聞のことであり、大きな名誉でもあります。
それなのに義持はあっさりと断り、父の最愛の義嗣を追放し、後に殺しています。
それぐらい、義持と義満・義嗣親子は仲が悪かったのです。
従って、仮に義嗣天皇が成立していたとしても、義満が先手を取って、義持を排除しておかない限り、義満の死と同時に義嗣はその座を追われたでしょう。
すなわち足利天皇は1代(2代?)限りで終わったに違いありません。
しかし、仮にそうだったとしても、後世に与える影響はかなり深刻なものがあったと思います。
天皇家が、他の国の王室と一番違うのは「現人神(あらひとがみ)」であり、その家系にとって代わるということができない、ということです。
この「できない」は「不許(ゆるさない)」であり、「不可能」であるということなのであり、それがゆえにさらに、「神聖」であるということになります。
しかし、足利天皇が仮に1年でも実現すれば、この原則は崩れたことになります。
いわば、天皇制は「キズモノ」になってしまうのです。
一度キズモノになると、その神聖度はいちじるしく損なわれます。
後世に与える影響というのはそれです。
一度の例外も許さない、認めない、ためにこれまで天皇家は無事だったのです。
しかし、そうではないとすると、足利天皇以外にも「馬の骨天皇」が、何人か出現したかもしれません。
さしずめ、三英傑・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康あたりがその候補になるでしょうか。
※本記事は、井沢元彦著『学校では教えてくれない日本史の授業 書状の内幕』より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月22日 00:05