2018年06月09日 公開
2023年03月31日 更新
西郷隆盛
西郷隆盛には2人目の妻・愛加那(あいかな)との間に息子・菊次郎と娘・菊子がいた。また、3人目の妻・糸との間には寅太郎の他、2人の息子に恵まれた。
西郷菊次郎
菊次郎は17歳で西南戦争に参戦。右足に銃弾を受け、膝下を切断する大けがを負う。23歳の時に外務省に入り、台湾総督府に勤務。七年間の任務を終えて日本に帰国した後は、京都市長に就任し、事業発展に尽力した。
寅太郎は、勝海舟らの後押しを受け、ドイツに13年間留学。父の賊名が解かれた頃に帰国し、陸軍少尉となる。西郷の功績が認められて侯爵となり、貴族院議員に就任した。大正5年(1916)に習志野俘虜収容所長となったが、2年後に肺炎にかかり、療養生活の末、死去した。
大久保利通
一方の大久保利通は、妻・満寿子(ますこ)との間に4人の息子と1人の娘がいた。そのうち3人は、政治家として活躍している。
長男・利和(としなが)は父とともに岩倉使節団に加わり渡米し、米国フィラデルフィアの中学へ入学。帰国後は大蔵省に勤務し、貴族院侯爵議員となる。
明治14年(1881)に、岩倉具視らと日本初の私鉄、日本鉄道を設立したことでも知られている。
二男は、大久保の従兄弟である牧野吉之丞(きちのじょう)の養子となった伸顕(のぶあき)。ただ、義父が戊辰戦争で戦死したため、大久保家で育てられた。11歳の時に、兄と同じくフィラデルフィアの中学に入学。海外経験を活かして外交官として活躍、外務大臣などを歴任した。
牧野伸顕
三男・利武(としたけ)は内務官僚、貴族院議員となり、日本赤十字社常議員を経て、鳥取、大分、埼玉、大阪の知事を歴任した。
このように、息子たちは、父親が亡くなった後の時代に大いに活躍することになる。
ちなみに冷徹な政治家と思われている大久保利通だが、三男・利武の証言によると「叱られたことがなかった」とのこと。それどころか、大変に子煩悩で、暇さえあれば書斎に子どもたちを呼び入れて遊ぶ等、子どもと過ごす時間を何よりも大切にしていた。
また、大久保が帰宅した時にはこんなことも。
父の靴を脱がせようと玄関に我先に駆けつけた子供たちに対して、大久保はわざと脱げにくい角度にして、やっと脱げた靴と一緒にひっくり返る子供たちの姿を見て、喜んでいた――。
大久保の、意外な一面が垣間見えるエピソードである。
更新:11月22日 00:05