2018年06月18日 公開
2023年03月31日 更新
鍋島閑叟(かんそう/直正)の嫡男・直大(なおひろ)は、文久元年(1861)に父の跡を継いで第11代佐賀藩主となり、明治2年(1869)の版籍奉還によって佐賀知藩事となった。
ところが、翌明治3年(1870)に、オックスフォード大学への留学を政府に申し出る。知藩事の職を投げ打ってもいいと思うほど、外国への関心が高かったのだろう。
同年12月に留学の許可が下りたが、翌月に閑叟が死去したため、出発は遅れることになった。明治4年(1871)11月に、岩倉使節団とともに日本を発つまでの間に廃藩置県が行なわれて、知藩事という役職はなくなっている。
留学当初は日本に残していた妻・胤子(たねこ)も、明治7年(1874)からは直大に同行し、2人で頻繁に晩餐会や舞踏会に顔を出した。「プリンス・ナベシマ」「プリンセス・ナベシマ」と呼ばれて、有名な存在になったという。
こうして西洋の社交術を学び、国際感覚を肌で身に着けた直大は、明治政府にとって貴重な人材となる。
明治12年(1879)、直大は外務省の御用掛となり、海外からの賓客の接伴役を務めた。
さらに、翌年には、イタリア駐在特命全権公使に任命される。
イタリアの社交界でも、直大は活躍した。ただ、その時に一緒にいた妻は、胤子ではなかった。イタリア駐在が決まった直後に、胤子は病死していたのだ。
独身では、外交官として社交界での活動に支障があるということで、直大は急遽、権大納言広橋胤保(たねやす)の娘・栄子(ながこ)との縁談をまとめた。栄子は岩倉具視の息子・南岩倉具義と結婚していたが、具義に先立たれていた。
直大と栄子の結婚式は、ローマで、純日本式で執り行なわれた。
ローマから帰国したのは明治15年(1882)。その翌年に鹿鳴館がオープンすると、直大は同館の幹事長を委嘱され、栄子とともに鹿鳴館外交の中心となって活躍した。
極端な西洋化は時に反発を招くこともあったが、父・閑叟と同様、直大は明治日本において大きな役割を果たしたと言っていいだろう。
更新:11月23日 00:05