2018年05月06日 公開
2019年04月24日 更新
明治36年(1903年)8月26日、楠本イネが没しました。シーボルトの娘で、日本で初めて産科医として西洋医学を学んだ女性です。
イネは文政10年、オランダ商館医として来日していたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘に生まれました。母親の瀧は商家出身の女性で、丸山の遊女として日本人の往来が制限されていた出島に出入りしていたといわれます。
その頃、シーボルトは出島の外に鳴滝塾を開いて、蘭学や西洋医学を日本人に教えていました。門弟に高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英らがいたことはよく知られています。
またイネが生まれる前年、シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行、11代将軍徳川家斉に謁見しました。 江戸では蝦夷地や北方を踏査した最上徳内や、幕府天文方の高橋景保らと交流、高橋からは「大日本沿海與地図」の縮図を贈られています。
ところが文政11年(1828)、帰国するシーボルトの所持品から日本地図が見つかったことが問題となり、シーボルトは国外追放となってしまいます(シーボルト事件)。本来は帰国3年後に再来日する予定でした。
シーボルト事件はイネが2歳の時のことです。シーボルトは日本を去る時、弟子の二宮敬作にイネの養育を託しました。二宮は師の頼みを受け、イネを伊予国宇和町に呼び寄せると、オランダ語と西洋医学を教えて、女医としての基礎を身につけさせました。
その後、イネが19歳になると、敬作は産科を学ばせるために、同じシーボルト門下の石井宗謙のもとに送ります。イネは石井のもとで産科を学び、その後、長崎に帰ると石井の子供を出産しました。娘のタダ(後の高)です。二宮敬作は、石井が師の娘に子供を産ませたことに激怒しました。そして安政元年(1854)、イネを再び宇和町に招いて、開業させます。
この頃、イネは敬作の紹介で大村益次郎と出会い、大村からオランダ語を学びました。 その後、安政6年(1859)、33歳のイネは、日蘭修好通商条約によって再来日が叶った父親のシーボルトと劇的な対面を果たします。
またイネは、同年よりヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォートから産科・病理学を学び、文久2年(1862)からはポンペの後任、アントニウス・ボードウィンに学びました。
明治2年(1869)、かつてオランダ語を師事した大村益次郎が京都で刺客に襲われ、大阪仮病院に入院した際、看護にあたったのがイネとその娘の高です。そして左大腿部切断手術を執刀したのがボードウィンでしたが、すでに手遅れで大村は没しました。
翌明治3年(1870)、イネは西洋医学による日本最初の女性の産婦人科医として、東京築地に開業します。また明治6年(1873)には、福沢諭吉の推挙で宮内省御用掛となり、明治天皇の第一子・若宮の出産に携わりました。
明治10年(1877)にイネは築地の医院を閉じ、長崎に帰って産婆になりますが、宮内省の要請で再び上京しています。イネの産婦人科医としての力量が認められていたゆえでしょう。
晩年は娘の高とともに東京で暮らし、明治36年(1903)、77歳で没しました。墓はイネの遺言により、母親の眠る長崎の晧台寺にあります。 シーボルトの娘ということで奇異の眼で見られ、苦労の多かったはずのイネの生涯ですが、やはり一番安らげるのは父母ゆかりの長崎の地であったのかもしれません。
更新:11月21日 00:05