2018年05月03日 公開
2019年04月24日 更新
奥羽列藩同盟が調印された白石城
(宮城県白石市)
慶応4年5月3日(1868年6月22日)、白石盟約書を加筆修正した新たな盟約書が調印され、奥羽25藩による奥羽列藩同盟が成立しました。さらに6日までに北越6藩もこれに加わって、31藩による奥羽越列藩同盟となります。会津藩及び庄内藩を救済するための、攻守軍事同盟です。
会津追討を命じる新政府に対し、会津の窮状を知る東北諸藩は仙台、米沢が中心となって列藩重臣を白石に集め、会津藩恭順の嘆願書を奥羽列藩連名で奥羽鎮撫総督府に提出しました。
ところが奥羽鎮撫総督府下参謀、世良修蔵は、「会津容保、天地に入るべからずの罪人」と決めつけ、嘆願書の受取を拒否した上、提出した仙台藩士などを罵倒します。さらに世良の手紙には、「白河以北、一山百文」など東北を愚弄する文言を並べていました。
これに激昂した仙台、福島藩士らにより、世良は宿屋で遊女といるところを捕らえられ、阿武隈川の河原で斬首されました。この下参謀世良の死により、それまで和平的な色彩であった東北諸藩の白石同盟は、一転して新政府軍に対抗する攻守同盟へと変貌するのです。
世良を斬った3日後の閏4月23日、列藩は白石で盟約書に調印し、福島に列藩の軍事局を置いて、新政府軍と対峙することを決定。会津藩や仙台藩から参謀を選出し、北方政権樹立という壮大な戦略を策定するに至ります。その中心人物が仙台藩の玉虫左太夫でした。
玉虫はかつて、安政7年(1860)の遣米使節の正使・新見豊前守正興の従者としてアメリカに渡り、かの地をつぶさに見聞してきた国際派の人物です。 玉虫には、これからの日本が目指すべきは、議会政治による共和政治であるという理想があり、王政復古の名を借りて、武力で他藩を捻じ伏せようとする薩長新政府の方針に強い反感を抱いていました。
そもそも新政府はすべての命令を天皇の名で出しますが、実際のところ、それが幼少の天皇の意思であろうはずがなく、あたかも天皇を操るその姿勢は、近代国家のかたちとして、ゆがんだものといわざるを得ません。そこで玉虫らは、列藩の盟約は公平、正大の道を執り、心を同じくし、力を合わせて上は皇室、下は人民をあわれみ、皇国を維持するとして8箇条を掲げました。
一、大義を天下に述べることを目的とし、小節細行には拘泥しない
一、舟を同じうして海を渡るが如く、信を持ち、義を持って動く
一、不慮の急用ある時は、近隣諸藩が速やかに応援する
一、武力で弱者を犯してはならない。私を計り、利を営んではならない。機密を漏らし、同盟を離間してはならない
一、城堡を築造して糧食を運ぶのはやむを得ないが、みだりに百姓を使役してはならない
一、大事には列藩集議し、公平を旨とする
一、他国に通謀し、あるいは隣境に出兵した際は、同盟に連絡すること
一、無罪の者を殺戮したり、金穀を略奪してはならない。不義の者は厳罰を加える
そして天皇を戴くことも討議され、孝明天皇の義弟・輪王寺宮公現法親王を迎えて擁立することも計画されます。いわばこれは単なる列藩同盟というよりも、薩長政府と真っ向から対立する北方政権の誕生ともいえるものでした。
実際、輪王寺宮は上野寛永寺から仙台藩に迎えられます。この事態にアメリカ公使ヴァン・ヴォールクンバーグは、「いまや日本には一人の大君に代わり、二人の帝がいる」とし、なかんずく北方政権が有利とさえ語りました。
列藩同盟は新政府軍の前にあえなく瓦解した印象もありますが、その本質は新政府に劣らぬ国家観、理想を持つ政権であり、武力に頼る新政府のやり方に批判的な、優れた見識を持つ人材が少なくなかったことを物語っているといえるのかもしれません。
更新:12月04日 00:05