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東武帝・輪王寺宮公現法親王~奥羽越列藩同盟の盟主

2018年02月16日 公開
2019年01月24日 更新

2月16日 This Day in History

北白川宮能久親王像
北白川宮能久親王像(東京都千代田区)
 

輪王寺宮公現法親王が生まれる

今日は何の日 弘化4年2月16日

弘化4年2月16日(1847年4月1日)、輪王寺宮公現法親王(北白川宮能久親王)が生まれました。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されたことでも知られます。 

伏見宮邦家親王の第9皇子として生まれた宮は、安政5年(1858)に仁孝天皇の猶子となって親王宣下され、翌年、得度します。慶応3年(1867)には江戸に下って上野の寛永寺に入り、寛永寺貫主、日光輪王寺門跡を継承、輪王寺宮公現法親王と呼ばれることになりました。

慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、徳川家の依頼を受けて輪王寺宮は駿府に赴き、寛永寺に謹慎している前将軍徳川慶喜の助命と、東征中止を新政府軍の東征大総督・有栖川宮に訴えますが、東征中止は聞き入れられません。失意のうちに上野に戻った輪王寺宮ですが、寛永寺には慶喜警護を名目に旧幕臣で結成された「彰義隊」が駐屯し、慶喜が水戸に去ると、彰義隊は徳川家霊廟守護を名目に輪王寺宮を擁することになります。

旧寛永寺・黒門
上野戦争の激戦を今に伝える旧寛永寺・黒門(東京都荒川区・円通寺)

5月15日に上野戦争が起こると彰義隊は一日で壊滅、輪王寺宮は彰義隊有志に保護され、榎本武揚の旧幕府海軍に身を投じ、東北へ身を移すことになります。すでに東北では5月4日、賊軍として追討の対象となっていた会津藩、庄内藩を救うべく、31藩が結束した奥羽越列藩同盟が成立。6月6日に会津入りした輪王寺宮を、同盟の盟主に仰ぐことになりました。輪王寺宮はこれをうけ、明治天皇を操る君側の奸、薩摩・長州を除くことを諸大名に呼びかける令旨を発しています。

しかし北越戦争、会津戦争を経て列藩同盟は瓦解、9月には降伏しました。輪王寺宮は京都での蟄居を命じられ、その後、還俗。明治5年(1872)、弟の北白川宮智成親王の遺言により、北白川宮家を相続します。

ドイツ留学から帰国後、陸軍軍人となった北白川宮は、明治28年(1895)、日清戦争で日本領となった台湾に台湾征討近衛師団長として出征し、現地で病没しました。なお奥羽越列藩同盟では、輪王寺宮を「東武帝」としていたという説もありますが、詳細は不明です。

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