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エイブラハム・リンカーン~人民の、人民による、人民のための政治

2018年04月14日 公開
2019年03月27日 更新

4月14日 This Day in History

Lincoln, The Legacy of a President. Washington DC
 

今日は何の日 1865年4月14日
リンカーンが狙撃され、翌日没。享年56

1865年4月14日、エイブラハム・リンカーンが狙撃され、翌日没しました。奴隷解放の父、ゲティスバーグの演説、南北戦争の勝利で知られるアメリカ第16代大統領です。今もアメリカ国民が最も尊敬する大統領であるといわれます。
 

今もアメリカ国民に愛され続ける第16代大統領

「小学校を中退した。田舎の雑貨屋を営むが、破産した。借金を返すのに15年かかった。妻を娶るが、不幸な結婚だった。下院に立候補するが、2度落選。上院に立候補するが、2度落選。歴史に残る演説をぶつが、聴衆は無関心。新聞には毎日叩かれ、国の半分からは嫌われた…」

アメリカの新聞が掲載したあるメッセージです。新聞は、さらにこう続けます。

「こんな有様にもかかわらず、想像してほしい。世界中いたるところの、どれほど多くの人々が、この不器用で不細工で、むっつりした男に啓発されたかということを。その男は、自分の名前をいとも気安くサインしていた。A.リンカーンと」

この新聞記事には、「あなたが落ち込んだ時には、この男のことを思い出してほしい」という見出しが付けられていました。リンカーンが今もアメリカ国民に愛され続けていることを象徴するような記事といえるでしょう。
 

リンカーンの生い立ち

リンカーンは1809年、ケンタッキー州ハーディン郡(現在のラルー郡)ホジェンヴィル付近の農場で、開拓農民のトーマス・リンカーンの息子に生まれました。日本では文化6年にあたり、島津斉彬や横井小楠らが同い年ということになります。

リンカーンが7歳の時に、父親は訴訟で所有していた土地をすべて失い、一家は貧困の中、奴隷のいない自由州であるインディアナ州に移住。 9歳の時に母親が急死し、父が翌年娶った継母と暮らすことになります。

リンカーンは満足な教育を受けられないまま成長し、21歳の時に一家はイリノイ州メイコン郡に移住しました。22歳の時に家を出て、イリノイ州サンガモン郡(現在のメナード郡)ニューセイラムの雑貨屋で働きながら、レスリングの賞金試合に出場したりしています。

一方で、ニューセイラムのディベート・ソサエティに参加。町の有力者たちに勧められて政治の世界に入ることを考え、翌年、州議会に立候補しますが落選しました。しかし2年後の1834年には初当選します。同時に弁護士になることを決意し、法律を独学で勉強し始めました。
 

政治の道を志す~「分かれたる家」演説

1836年、27歳の時に法廷弁護士として認められ、翌年スプリングフィールドに転居。法律事務所を共同運営し、有能な弁護士の評判を獲得します。またイリノイ州下院議員は4期務めました。

1842年、リンカーンは一度婚約破棄した相手、メアリー・トッドと紆余曲折の末に結婚。メアリーはケンタッキー州レキシントンの名家の出で、実家には政治家や実業家たちがよく出入りしていました。活発で頭が良く、思ったことをズバズバ言うメアリーに、リンカーンは辟易することも多く、後にメアリーは悪妻と語られることが多くなります。

リンカーンは失敗を経ながらも、1846年に37歳で連邦下院議員に選出され、国政に打って出ました。その後、一時期弁護士の仕事に戻りますが、1854年に奴隷制を擁護するカンザス・ネブラスカ法案が成立すると、これに反対する立場で政界に復帰します。

同年、カンザス・ネブラスカ法に反対する演説をピオリアで行ない、注目を集めました。しかし連邦上院議員選挙では2度落選。2度目の選挙前、奴隷制論議によって連邦が解体する危険性を訴えます。

「分かれたる家は立つこと能わず。半ば奴隷、半ば自由の状態でこの国家が永く続くことはできないと私は信じます」

聖書のマルコの福音書から引いた、この「分かれたる家」演説は、多くの人々の共感を呼んだのです。
 

「奴隷解放宣言」とゲティスバーグの演説

1860年、51歳のリンカーンは共和党イリノイ州大会において、初めて州推薦大統領候補に指名されました。選挙戦の最中、11歳の少女のアドバイスで、リンカーンはあご髭を生やしたといわれます。

そして11月、リンカーンはライバルを破り、第16代大統領に就任。しかしそれは、アメリカが南北に割れることを意味しました。すなわち奴隷制存続を主張するアメリカ南部11州が合衆国を脱退し、アメリカ連合国を結成したのです。そして合衆国に留まった23州との間で、1861年から内戦が始まります。南北戦争でした。

1862年、リンカーンは「奴隷解放宣言」を行ない、南軍兵士が保持する奴隷の解放を命じます。これによって南軍では多くの奴隷が主人のもとから去り、軍に動揺が走りました。また海外諸国も奴隷解放の姿勢を評価したため、アメリカ連合国が国家として認められる可能性は極めて低くなります。

翌1863年、リンカーンはペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において、有名なゲティスバーグの演説を行ないます。特に「人民の、人民による、人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)」という一節が有名になりました。実はこの演説は僅か2分間程度のもので、それもエドワード・エベレット元国務長官の2時間にも及ぶ大演説の後の、小スピーチでした。そして当時の「ロンドンタイムズ」は、「実になっていない話であった。あれが大統領のスピーチとは、お粗末なものである」と酷評しています。後の評価を思うと、興味深いものです。
 

南北戦争の終結の5日後、暗殺される

1865年4月9日、南軍のリー将軍の降伏で南北戦争は事実上、終結しました。その5日後の14日、リンカーンはフォード劇場で妻のメアリーと観劇中、俳優のジョン・ウィルクス・ブースに撃たれました。ブースは南軍のシンパです。翌朝、リンカーンは逝去。享年56。

ある時、リンカーンが町を歩いていると、一人の男が「あれが大統領か。実に平凡な風采だな」とつぶやきました。するとリンカーンは振り向き、「その通りだよ、君。神様は平凡な人が好きなのだ。だから平凡な人をたくさんつくられたのだ」と応えたといいます。

リンカーンは自分が「民衆の一人」であることを最高の誇りとしていました。民衆の一人でなければ、民衆の心はわからないからです。「下もなければ上もない。リーダーは特別な人である必要は全くない。皆を平等に大切にできる人であればよいのである」ということでしょう。リンカーンが今もアメリカで慕われる理由は、この辺にあるのかもしれません。

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