2018年04月13日 公開
2022年07月26日 更新
清河八郎を祀る清河神社
(山形県庄内町)
文久3年4月13日(1863年5月30日)、清河八郎が江戸麻布一ノ橋で暗殺されました。幕末の志士で、動乱の火付け役になったことで知られます。
清河八郎は天保元年(1830)、出羽国庄内藩領清川村(現在の山形県東田川郡庄内町)の郷士・斉藤豪寿(ひでとし)の長男に生まれました。幼名、元司。諱は正明。 幼少の頃から聡明で、飢饉に見舞われた4歳の時、家の土蔵に押し入って米を奪った盗賊を、声からその正体が村人であると見破ったといわれます。7歳の頃から父親に「論語」などを学び、14歳で清川関所の役人・畑田安右衛門に師事し、学問に励みます。
そんな八郎にとって一つの転機となったのが、弘化3年(1846)に斉藤家を訪れて逗留した旅の絵師・竹洲との出会いでした。竹洲は江戸や京都の様子を17歳の八郎に話して聞かせます。また清国がイギリスに敗れたアヘン戦争のこと、西欧列強が次に日本を狙っていることなども教えました。八郎の器量を見込んでのことでしょう。竹洲の本名は備前岡山藩士・藤本津之助(鉄石)。後に天誅組の総裁の一人となる人物です。
鉄石の話に、八郎は清川村でじっとしていられなくなります。弘化4年(1847)、18歳の八郎は家族の了承が得られないため書置きを残して出奔、江戸に出ると、古学派の東条一堂に入門、その後、安積艮斎塾に移って学びました。一方、嘉永4年(1851)、22歳で北辰一刀流の玄武館に入門。熱心に稽古に励み、29歳で自ら道場を開くことのできる中目録免許、31歳で北辰一刀流兵法免許を得ています。
安政元年(1854)には師の安積艮斎の推挙を得て、幕府の学問所・昌平黌に入学。最も権威のある学校でしたが、八郎は内容のない講義に失望し、さっさと退校してしまいます。そして25歳にして、神田三河町に「経学・文章指南」の塾を開きました。それが清河塾で、八郎は初めて清河八郎を名乗ります。故郷の清川村の川を河に変えた苗字でした。
安政2年(1855)、八郎は母親を連れて半年ほど、主に西国を旅します。旅行中、さまざまな人物に会い、手厳しい人物評を記録しました。安政4年(1857)、駿河台淡路坂に二度目の塾を開きます。またこの頃、玄武館で幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らと出会い、尊王攘夷論で意気投合しました。安政6年(1859)には神田お玉が池に三度目の塾を開きますが、学問だけでなく剣術も教授するという、八郎ならではのユニークな塾であったといわれます。
翌安政7年に桜田門外の変が起こると、衝撃を受けた八郎は山岡鉄太郎をはじめ、松岡万、薩摩の伊牟田尚平、益満休之助ら、尊王攘夷に共鳴する者たちを集め、「虎尾の会」を結成。そして外国人居留地を焼き払う計画を立て、幕府に睨まれました。
文久元年(1861)、両国に出かけた帰り道、八郎は男にからまれ、斬り捨てます。これは幕府の罠で周囲には捕り方が潜んでいましたが、八郎の腕前を恐れて近寄らず、八郎は姿を消します。しかしこの一件で八郎はお尋ね者となり、家族や仲間が捕らわれました。
その後、八郎は仙台、京都などに潜伏後、九州で遊説し、尊王攘夷の機運を高めていきます。 興味深いのは尊王攘夷といっても関東では攘夷を強調すべきで、西国では尊王に重点を置くべきと認識していた点でしょう。どうすれば人が動くのか、計算していました。
そして薩摩藩国父・島津久光の率兵上京を好機として、一気に倒幕の挙兵に持ち込もうとします。これが文久2年(1862)の伏見寺田屋の惨劇につながる動きで、八郎はいわば寺田屋事件をプロデュースした男でした。もっとも寺田屋事件が起きた時、八郎は他の同志と意見が対立してすでに立ち去っており、事件には巻き込まれていません。
大藩は頼るべきでないと考えた八郎は江戸に戻り、政事総裁職の松平春嶽に「急務三策」と題する建白書を提出します。その内容は「攘夷の断行、大赦の発令、天下の英才の教育」を求めるもので、尊攘派浪士に手を焼いていた幕府は、八郎の案を採用して大赦を発するとともに、上洛する将軍護衛のための浪士組をつくることにします。八郎は大赦により、お尋ね者を免じられました。
文久3年(1863)、およそ200人の浪士組は将軍家茂に先駆けて上洛、八郎も盟主的な立場で同行します。そして一行が洛西壬生村に到着すると、八郎は一行を集め、宣言しました。
「われわれは幕府の募集に応じたが、その本分は尊王攘夷の魁たらんことにある。われわれの志を朝廷に奏上したい」
浪士たちにすれば狐につままれたような話で、幕府の役人も八郎の意外な言動に驚きました。そして八郎の奏上は、学習院を通じて朝廷に聞き届けられます。 朝廷に認められた八郎は意気揚々と、再び浪士たちを集め、これより東帰し、横浜で攘夷を実行すると宣言します。これに対し「我らは将軍家の護衛が任務のはず」と従わず、京都に残ったのが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら後の新選組の面々でした。
構わず八郎は、大多数の浪士を連れて江戸に戻ります。しかし八郎の動きは幕府にマークされ、4月13日、外出した帰り道に麻布一ノ橋付近で、佐々木只三郎をはじめとする幕府の刺客に待ち伏せされ、討たれました。享年34。
学問もあり剣の腕も優れ、弁舌爽やか、容姿も立派と志士として申し分ない清河八郎。彼を評して「百才あって一誠なし」ともいわれます。どんなに言葉巧みに欺き、世の中を動かそうとしても、そこに人としての真情がなければ、決してうまく運ぶものではない。人の世の何事かを伝えているようにも感じられます。
更新:11月24日 00:05