2018年04月06日 公開
2019年03月27日 更新
伊豆大島 源為朝館之跡
嘉応2年4月6日(1170年4月23日)、鎮西八郎こと源為朝が没したといわれます。源為義の8男で、源義朝の弟にあたる為朝は、身長2m以上、恐るべき強弓の使い手で知られる剛の者ですが、その生涯は半ば伝説的です。
13歳の時、父・為義の不興をかって九州に追放されますが、豊後を拠点に鎮西の惣追捕使を自称し、並みいる強豪たちを破って、3年で九州を従えます。しかし香椎宮の神人が為朝の狼藉を朝廷に訴えたことで、父の為義は検非違使の役職を解かれ、これを受けて為朝は九州の選りすぐりの猛者28騎を従えて上洛しました。
保元元年(1156)、時あたかも崇徳上皇と後白河天皇の衝突が避けられない状況となり、父の為義は上皇方から大将として白川北殿に招かれます。為朝も父に従って上皇方につきますが、東国に基盤をもつ兄の義朝は天皇方につきました。
軍議において為朝は天皇方への夜襲を主張し、さもなければ兄の義朝がこちらへ夜襲をかけてくるだろうと予想しますが、左大臣・藤原頼長に一蹴されてしまいます。
はたして為朝の予想通り天皇方が夜襲を敢行、為朝の守る西門に平清盛が攻め寄せます。群がる清盛の郎党に向けて為朝が強弓を放つと、矢は伊藤忠直の胸板を貫いて、後ろにいた伊藤忠清の鎧の袖に突き刺さりました。
これを見た清盛は胆を潰し、別の門へと移動。代わりに挑んできたのは、兄・義朝でした。さすがに兄を射殺すのは忍びないと、為朝はわざと狙いを外して矢を兜に掠めさせますが、掠っただけで矢は兜を削り、衝撃で義朝は落馬しかけます。
しかし義朝は自らの東国の郎党をけしかけ、為朝も九州勢28騎とともに迎え撃ち、東国勢53騎を討ち取りますが、九州勢も23騎が討死し、やがて白川北殿炎上とともに上皇方は敗北。為朝は郎党を連れて脱出しますが、近江国で湯治をしていたところを捕縛されました。
義朝は為朝の武勇を惜しみ、肘の筋を切って弓を使えないようにして、伊豆大島に流しました。ところが傷が癒えると為朝はまた暴れ始め、10年後には伊豆七島を支配します。
この事態に為朝追討の院宣が下り、500余騎の軍勢が20艘の軍船で攻めかかると、為朝は強弓1本で一艘の軍船を沈めてみせ、その後、館で切腹したといわれます。
しかし異説では為朝は琉球へと逃れ、為朝の子が初代琉球王・舜天となったともいいます。
更新:12月10日 00:05