2018年03月26日 公開
2019年02月27日 更新
長享3年3月26日(1489年4月26日)、足利9代将軍義尚が陣没しました。8代将軍義政と日野富子の息子です。
8代将軍義政は長らく子が生まれなかったため、弟の義視を養子にして、次期将軍にと考えていました。しかしその後、富子が義尚を生み、富子が我が子を将軍にと望んだため、義尚を推す有力大名の山名宗全と、義視を庇護する管領細川勝元の衝突につながり、それが応仁の乱に発展することになります。
文明5年(1473)、義尚は9歳で父・義政より将軍位を譲られました。しかし文明9年までおよそ10年続いた応仁の乱に京都は荒廃し、足利将軍の権威を大いに失墜させ、「下剋上」の気運が醸成されていきます。
そんな中、長享元年(1487)に近江守護・六角高頼が公家や寺社の所領を横領したという理由で、将軍義尚自ら2万(8000とも)の軍勢を率いて出陣。高頼は観音寺城を捨てて甲賀に退去し、義尚は鈎(まがり、現滋賀県栗東市)に陣を張りました。ここで登場するのが、甲賀の忍びの者たちです。
甲賀衆は義尚の陣所に夜襲をかけ、また幕府方大名の各陣で火災を発生させて、混乱させました。この時、参加した甲賀衆は53家、特に活躍したのが21家あったといわれ、山中氏、伴氏、望月氏などがよく知られるところです。
さらに彼らは軍勢を山間部に引き込み、得意のゲリラ戦で散々に翻弄、このため義尚率いる幕府軍は攻めあぐねます。もともと義尚はじめ幕府軍の戦意は高くなく、次第に義尚は遊興にふけるようになり、戦線は膠着。滞陣は1年半に及んだ末に、長享3年3月26日、義尚は25歳の若さで陣没しました。
不摂生な生活がたたっての脳溢血であったとも、甲賀衆による暗殺であったともいわれます。その後も六角氏は幕府軍の再征を受けますが高頼を捕らえることはできず、高頼を支える「霞の如き」甲賀衆は、恐るべき存在として広く知れ渡ることになりました。
更新:12月10日 00:05