2018年02月09日 公開
2019年01月24日 更新
永享6年2月9日(1434年3月19日)、足利義勝が生まれました。足利7代将軍ですが、幼くして将軍となり、間もなく他界したので、ほとんど知られていません。
足利義勝は永享6年、足利6代将軍義教の嫡男に生まれました。幼名、千也茶丸。父親の足利義教といえば将軍就任の際に、くじ引きで選ばれたことで知られます。
義勝の生母は日野氏ですが、義勝は生後間もなく義教の正室・三条氏の養子となり、政所執事の伊勢貞国の屋敷で養育されました。 しかし嘉吉元年(1441)、義勝が8歳の時に嘉吉の乱が起こり、父・義教は赤松満祐に暗殺されます。義勝はこの時、貞国の兄・貞経邸にいたといわれますが、室町殿に移されました。そして幕府の有力諸将の合議により、当面は管領・細川持之らが義勝を補佐していくことに決します。
翌嘉吉2年(1442)、義勝は元服し、足利第7代将軍に就任しました。まだ9歳の将軍の誕生です。 もちろん義勝に実権があろうはずがなく、補佐役の細川持之が権力を掌握することになります。当時は将軍義教を討った赤松満祐が国許で不穏な動きを見せており、これを山名持豊(宗全)が討伐すると、山名が勢力を得ました。
同年、後見役の細川持之が没。細川家の家督は嫡男の勝元が継承します。しかし勝元がまだ幼かったため、義勝の後見は持之の弟・持賢が務めることになりました。また管領の後任には畠山持国が就任し、幕政は畠山が仕切ることになります。
一方、赤松討伐でまだ幕府が揺れている頃より、京都付近では土豪や馬借らによる土一揆が起こり、酒屋や土倉が襲われ、幕府軍と交戦する事態となりました。幕府は徳政令を発して、なんとかこれを鎮めます。こうした世の中の乱れが顕著になり始めた時代に、少年将軍義勝は何を思っていたのでしょうか。
嘉吉3年(1443)7月、義勝は体調を崩し、1週間ほどであっけなく落命しました。享年10。死因は赤痢に罹ったとも、落馬したためとも、あるいは暗殺であったともいわれます。後任の8代将軍には、義勝の同母弟・義政が8歳で就任することになりました。またしても少年将軍であり、世の中の乱れはますます深刻になっていきます。
そして義政、山名宗全、細川勝元と役者が揃ったところで、世は応仁・文明の大乱へと突入するのです。 少年将軍といえば徳川7代将軍家継もそうで、彼もやはり早世しています。少年を将軍に据えれば、大抵は後見役が実権を握り、政道が乱れる元となるのは歴史の証明するところ。 何より子供に重責あるポストに就かせるのは、周囲の人間の都合でしかないのかもしれません。
更新:11月22日 00:05