2018年03月25日 公開
2019年02月27日 更新
弘化元年3月25日(1844年5月12日)、雲井龍雄が生まれました。米沢出身の幕末の志士で、新政府の集議院議員を務め、政府転覆の疑いで処刑されました。藤沢周平の小説『雲奔る』でも知られた人物です。
米沢藩士・中島惣右衛門の次男として米沢袋町に生まれた龍雄の本名は豹吉。龍雄という名は明治元年(1868)頃に、辰年辰の日に誕生したことにちなみ、自ら名乗ったものでした。幼い頃から腕白で、相手が年上でも物怖じせずに言うべきことを言う子供だったようです。
8歳から塾で学び、14歳で藩校・興譲館に通います。その頃、龍雄の家に来た友人は、龍雄の部屋に棒が置いてあるので何のためかと尋ねると、龍雄は頭のこぶを見せ「夜、勉強していて眠くなると、これで頭を殴るのだ。『春秋左氏伝』を一晩徹夜して読破した時も、これで殴りながら読んだ」と言って笑いました。
猛勉強の甲斐あって、16歳の時には学業優秀者として藩の重役の前で質疑応答する栄誉に浴し、その頃には興譲館の3000冊の蔵書を読み尽くしていたといわれます。18歳で叔父の小島才助の養子となり、2年後に才助が他界したため家督を相続。慶応元年(1861)、22歳の龍雄は江戸詰めとなり、藩の許可を得て高名な学者・安井息軒に入門します。
息軒は龍雄の才幹を見込んで塾頭とし、深い信頼を寄せますが、翌年、藩命により帰国。その頃、京では薩長同盟が結ばれ、時代が大きくうねり始めていました。龍雄は時勢に遅れないよう藩の重役に説き、慶応3年(1867)1月、24歳で京に派遣されます。
龍雄が京で諸国の人材と交わる最中、10月に大政奉還によって徳川幕府が倒れ、12月には王政復古の大号令が発せられました。龍雄は新政府の貢士(各藩から推薦された議政官)に選ばれ、米沢藩を代表して新政府に意見を言う立場となります。門閥を超えた大抜擢でした。
しかし龍雄が直面したのは勢力拡張に汲々とする薩摩や長州の権力争いでした。さらに薩摩藩らは大政奉還した徳川慶喜を強引に戦いに引きずり込むため、策謀をめぐらします。そのやり口に怒った龍雄は、諸外国が日本を狙う危機の今、一部の藩の横暴で内乱を招くことは許されないと3度も朝廷に意見書を送りますが、あえなく却下されています。
こうした事態に龍雄は、薩長らに抗すべく奥羽越列藩同盟に奮起を促しますが、明治2年(1869)には新政府軍の圧倒的な勝利で戦いが終わりました。 龍雄はしばらく藩校・興譲館で教鞭をとった後に東京に出ると、政府は彼を集議院議員に任じます。龍雄の器量を新政府の多くの者も認めていたのです。
ところが、何事も薩長優先の政府の方針を舌鋒鋭く批判したため、間もなく龍雄は官を追われました。一方でそうした龍雄の姿勢は多くの共感を呼び、旧幕臣や脱藩者たちが周囲に集まりはじめます。龍雄は彼らの窮状を見て、政府に帰順の機会を与えるよう再三嘆願しますが、かえってそれが政府転覆の陰謀と見なされ、捕縛されてしまいます。
そして満足な取調べも受けないまま、明治3年(1870)12月に小伝馬町の獄で斬首されました。享年27。遺体は大学南校に送られ、解剖の授業に使われたといいます。
「死して死を畏れず 生きて生を偸(ぬす)まず 男児の大節は 光(かがやき)日と争う 道これいやしくも直(なお)くんば 鼎烹(ていほう)をも憚らず 渺然(びょうぜん)たる一身なれど 万里の長城たらん」
たとえ我が身が辱められようと、自分の真っ直ぐな志は輝きを失わず、不朽であると詠んだ、龍雄の辞世です。
更新:11月21日 00:05