2018年03月21日 公開
2019年02月27日 更新
承和2年3月21日(835年4月22日)、弘法大師空海が入定しました。唐から真言密教をもたらし、真言宗の開祖として知られます。
讃岐国の郡司の家系である佐伯直田公の子に生まれた真魚は、学問に優れ、15歳で長岡京に出て、叔父で儒学者の阿刀大足に学びました。やがて仏の道こそ人々を救うものと考えるようになり、20歳の時に周囲の反対を押し切って出家、空海と名乗ります。
そして名僧に教えを請うことを望み、31歳の時、遣唐使の一行に加わって唐に渡りました。一行には、後に天台宗を開く最澄もいました。都の長安で空海は、青龍寺東塔院の恵果和尚に師事します。恵果は正統の真言密教を継ぐ第七祖でしたが、空海が来ることを待っていたかのように喜び、空海は三回の灌頂の後に「遍照金剛」の法号を授けられ、第八祖を継承することになりました。恵果は空海に「真言密教の教法はすべて伝えた。早く日本に帰り、真言の法を広めよ」と言い残し、没します。
大同元年(806)、帰国にあたり空海は明州の浜辺に立ち、「私が受け継いだ教法を広めるのによい土地があれば、先に帰って示したまえ」と祈り、手にしていた三鈷杵を空に投げると、それは日本へと飛んで行き、高野山御影堂の前の松に留まったという伝承があります。
帰国した空海は時の嵯峨天皇より真言宗を開き、真言密教の教えを広める許しを得ました。弘仁7年(816)、高野山を真言密教の根本道場に定め、堂塔伽藍を整えていきます。一方で弘仁12年(821)には、讃岐の満濃池の決壊を防ぐ工事を成功させ、その2年後には嵯峨天皇より京都に東寺を賜りました。空海はそのご恩に応えるべく、東寺を「教王護国寺」と称し、皇室の安泰を祈願し、真言密教を一層広めていきます。
天長5年(828)、誰もが学問を学べる学校「綜芸種智院」を京都に創立、また四国八十八ヵ所霊場を開きました。やがて空海は生身の体で生きるよりも、自ら永遠の金剛定に入ることで、未来永劫、迷える者、苦しむ者を救いたいと願い、62歳の承和2年3月21日寅の刻を入定の時と定めました。そして入定から50日目に、高野山奥之院の霊窟に定身を納めたといわれます。
高野山奥之院には、杉木立の中に無数の墓碑が並んでいます。空海の霊廟はその奥で付近は撮影禁止。高野山では今も空海は奥之院で禅定を続けていることになっており、維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が毎日、衣服と二度の食事を給仕しています。一説に、霊窟の後ろに穴があり、空海はそこから自由に外に出て、人々を救っているともいわれます。そうした伝説が真実味をもって聞こえるほど、空海の息づかいが感じられるような異空間です。
更新:12月10日 00:05