「八重洲」の由来ヤン・ヨーステンの記念碑
(東京都中央区)
慶長5年3月16日(1600年4月29日)、オランダの商船リーフデ号が豊後国臼杵(現在の大分県臼杵市)に漂着しました。日本に到達した初めてのオランダ船であり、日本とオランダの交流はここから始まることになります。
リーフデ号の「Liefde」はオランダ語で愛。リーフデ号を含む5隻の商船の船団が東洋を目指し、オランダのロッテルダムを出航したのは、1598年(慶長3)のことでした。船団は南アフリカ南端を経て、太平洋に入るコースをとります。
ところが途中、スペイン船やポルトガル船の襲撃、さらに嵐に見舞われ船団は離散、東洋までたどり着いたのはリーフデ号だけでした。漂着時、110人いた乗組員のうち、生存者は24人。しかも直後に3人がさらに命を落としたといいます。
その数少ない生存者の中に、船長ヤコブ・クワケルナック、高級船員ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、イギリス人航海士ウイリアム・アダムスらがいました。アダムスは日本に来た初めてのイギリス人です。
彼らは当時、豊臣政権下で最大の実力者であった徳川家康の命を受け、大坂に回航されます。イエズス会の宣教師たちは、乗組員の即時処刑を主張しましたが、家康は彼らが海賊船でないことを知ると、その知識を重視し、重用しました。また家康はリーフデ号が備えていた大砲を取り外し、砲員とともに半年後の関ケ原合戦で活用したという説もありますが、具体的にどれを指すのかはよくわかりません。
当時、日本の交易相手は主にポルトガル人でした。家康は彼らに対抗する意味も込めて、クワケルナックやヤン・ヨーステンに貿易を許可する朱印状を与えます。 慶長10年(1605)、クワケルナックは家康からオランダ総督マウリッツに宛てた親書を携えて、オランダ東インド会社(Vereenigde Oost-Indische Compagnie, 略称VOC)の拠点であるマレー半島のバタニへ赴きました。その後、彼は帰国の途につきますが、マラッカ海峡でポルトガル人に殺されたといわれます。
家康の親書を受けて、オランダ東インド会社の船が慶長14年(1609)に九州平戸に来航。オランダ総督マウリッツからの家康への親書と献上品をもたらしました。家康は使節を駿府に迎え、通航許可の朱印状を与えました。以後、オランダ商館が平戸に建設され、日蘭の貿易が始まります。
一方、ヤン・ヨーステンは家康の外交顧問となり、江戸城の内堀内に屋敷を賜って日本人と結婚しました。ちなみにヤン・ヨーステンは名で、姓はローデンスタインです。名のヤン・ヨーステンから「耶楊子(やようす)」と呼ばれ、それが後に「八代洲(やよす)」となり、現在の八重洲の地名となったことはよく知られています。
ヤン・ヨーステンはその後も長く東南アジア方面で朱印船貿易を行ないました。やがて故郷に帰ろうとバタヴィア(現在のジャカルタ)の東インド会社本社と交渉しますが、うまくいかず、日本に戻ろうとしたところ乗船がインドシナで座礁し、溺死しました。元和9年(1623)のことで、一説に享年67。
そしてウイリアム・アダムスは家康から信頼され、外国使節との交渉の際の通訳を務める一方、幾何学・数学・航海術などの知識を伝えました。慶長7年(1602)頃には日本橋大伝馬町の名主・馬込勘解由の娘・雪(マリア)と結婚、一男一女をもうけています。その後、家康の命で大型船の建造を指導し、250石取りの旗本に取り立てられました。相模国の采地も与えられ、「三浦按針」と呼ばれます。三浦は領地の三浦半島から、また按針は彼の本来の職業である水先案内人を意味する言葉でした。
アダムスは本心では帰国を願っていましたが、家康の巧みな懐柔でその機会を失ってしまったというのが真相のようです。しかし、家康が没すると、2代将軍秀忠は貿易を平戸のみに限定し、アダムスの役目もほとんどなくなってしまいます。そして元和6年(1620)、望郷の思いを抱きながら、アダムスは平戸で没しました。享年57。
クワケルナック、ヤン・ヨーステン、ウイリアム・アダムスは日本に漂着したことで、その人生を大きく変え、リーフデ号の乗組員たちは誰も故郷に戻ることはできませんでした。 しかし彼らの東洋に赴こうとする冒険心が日本に与えた影響は大きく、歴史の不思議さ、面白さを感じさせてくれます。
更新:12月10日 00:05