2018年05月12日 公開
2019年04月24日 更新
賤ヶ岳(滋賀県)
天正11年5月12日(1583年7月1日)、佐久間盛政が処刑されました。「鬼玄蕃」の異名を持つ猛将で、賤ヶ岳の合戦の行方を左右した人物です。
天文22年(1554)、盛政は尾張国御器所(ごきそ)で織田信長の家臣・佐久間盛次の子に生まれました。信長の重臣・佐久間信盛は一族で、従兄にあたります。また母親は柴田勝家の姉なので、勝家は盛政の叔父にあたりました。永禄11年(1568)の観音寺城の戦いに15歳で初陣。一説に身長6尺(約182cm)というので、相当な大柄であったようです。
続く元亀元年(1570)の越前手筒山城攻め、天正元年(1573)の山城槇島城攻めなどで武功を上げ、天正3年(1575)に柴田勝家が越前一国を与えられると、その配下となりました。主に一向一揆を相手にした北陸平定戦では目覚しい活躍を見せ、天正8年(1580)には27歳で初代の加賀金沢城主になっています。
同年、従兄の佐久間信盛が信長に追放されると、盛政も遠慮して一時閉居しましたが、すぐに信長に許されて復帰。天正9年(1581)には加賀に侵攻してきた上杉軍を撃退しました。翌年、本能寺で信長が斃れた後も、盛政は一貫して叔父・柴田勝家を支え続けます。
織田家の後継者を決める清洲会議で対立を深めた柴田勝家と羽柴秀吉は、天正11年(1583)、近江国余呉湖付近で対峙します。賤ヶ岳の合戦でした。
3月12日、まだ雪の残る北陸路を3万の軍で南下した柴田軍は近江国柳ヶ瀬に到着。伊勢で滝川一益と戦っていた秀吉は、柴田軍に対して5万の兵で迎え撃つ構えをとり、近江国木ノ本に布陣します。両軍はそれぞれ砦を築き、長期持久戦の様相となりました。
近江と伊勢の二方面の敵を相手にする秀吉に対し、4月16日にいったん秀吉に降伏していた信長の三男・信孝は、滝川と結んで美濃で再挙兵し、秀吉はこれを鎮定すべく近江戦線から将兵を引き抜いて、美濃に向かいました。
秀吉が戦線を離れたことを好機と見たのが、佐久間盛政です。盛政は大岩山砦の攻撃を柴田勝家に進言し、砦を攻略したら即座に戻ることを条件に、勝家はこれを許します。
4月19日、大岩山砦を奇襲した盛政の狙いは当たりました。守将の中川清秀を討ち取り、岩崎山砦の高山右近も退却させることに成功するのです。勝家は盛政に陣に戻るよう命じますが、盛政勢の前に賤ヶ岳砦の桑山重晴も撤退しそうな様子で、さらに戦況は有利になると見た盛政は、前線で粘りました。
ところが撤退し始めた桑山勢のもとに丹羽長秀の援軍が駆けつけ、さらに信じがたいことに美濃にいるはずの秀吉軍が戻ってきたのです。近江戦線の動きに即応した秀吉の「美濃大返し」でした。これによって、敵陣に突出していた盛政勢は撤退を始めるものの羽柴軍に強襲されるはめになり、救援にきた柴田勝政とともに、窮地を脱するための激闘を続けます。
ところがこの状況下で、柴田軍の有力武将であった前田利家がまさかの戦線離脱。羽柴軍は嵩にかかって柴田軍に攻めかかり、柴田軍は全軍が支えきれずに崩壊、敗走することになりました。盛政は乱戦の中でかろうじて戦場を離脱しますが、力尽きたところを農民に捕縛されました。
縄を打たれて秀吉本陣に連行された盛政に対し、浅野長政が「鬼玄蕃ともあろう者が、なぜ自刃しなかったのか」と揶揄すると、「源頼朝は大庭景親に敗れた時、木の洞に隠れて生き延び、その後大事を成したではないか」と言い返したといいます。
また秀吉は、今回の盛政の戦術を高く評価し、「好きな領地をやるから家臣に加われ」と誘いますが、盛政は「こたびの敗戦の責任はすべてそれがしにあり、いまだ柴田殿への御恩に報いておりませぬ。それゆえ命ある限り、筑前殿のお命を狙い申す」と応え、さらに「切腹も無用。市中を引き回して磔にされるがよろしかろう」と言い放ち、その言葉通り、京を引き回された上、山城国槇島で斬首されました。享年30。
一説に、秀吉が盛政に討たれた中川清秀の息子を呼び出し、盛政の前で「父親を討った男は憎かろう」と訊いたところ、「いいえ。父ほどの武将を討った佐久間殿は見事な武人です」と賞賛します。聞いていた盛政は、「若いのに何と立派な武士であることよ。わしの娘をそなたの嫁にしたかった」と言い残したといいます。
後年、秀吉の命令で、盛政の娘・虎姫は中川清秀の次男に嫁ぎました。
更新:12月10日 00:05