2018年02月18日 公開
2019年01月24日 更新
明治24年(1891年)2月18日、三条実美が没しました。幕末の尊攘激派の公家で、七卿落ちを経て、維新政府では太政大臣、内大臣を務めたことで知られます。
三条実美は天保8年2月7日(1837年3月13日)、内大臣・三条実万の3男に生まれました。三条家は藤原北家の分家で、摂関家に次ぐ清華家の一つです。名門でした。
安政元年(1854)、兄の早世に伴い、18歳で三条家の家督を継ぎました。父親の実万は尊王攘夷派で、実美が若い頃から長州の桂小五郎、筑前の平野国臣らの志士が屋敷に出入りしていたといわれます。
安政6年(1859)、父親の実万は安政の大獄に連座して隠居・出家し、同年秋に没しました。しかし翌年の桜田門外の変で井伊大老が討たれると、京都の尊攘派は一気に息を吹き返します。
文久2年(1862)、26歳の実美は尊攘派の公家として勅使の一人となり、江戸に下って、将軍徳川家茂に攘夷の督促を行ないます。また国事御用掛となって、出入りする長州藩士らと結び、姉小路公知とともに、尊攘派の中心となりました。当時、長州藩士らは隠語で実美を白豆、姉小路を黒豆と呼んでいたと伝わります。
翌文久3年(1863)の孝明天皇の大和行幸も実美らが画策したもので、この頃は勅諚と偽ったいわゆる「偽勅」も度々発されていました。 しかし同年、8月18日の政変で会津・薩摩藩が宮中の尊攘派を一掃したことで、失脚した実美は他の6人の公卿とともに長州へ落ちることになります。七卿落ちでした。
実美らは三田尻(防府)の招賢閣に滞在しますが、元治元年(1864)の第一次長州征伐に際し、福岡藩に預けられ、太宰府の延寿王院を居所としました。同寺には薩摩の西郷吉之助、長州の高杉晋作、土佐の坂本龍馬らが訪れたといわれます。
慶応3年(1867)、王政復古の大号令によって許され、従三位に復位。京都に戻り、新政府の議定となります。その後、新政府において副総裁、外国事務総督、右大臣、さらに太政大臣など要職を歴任。太政大臣となった明治4年(1871)に岩倉使節団を送り出し、留守政府の首班となりました。
明治6年(1873)、いわゆる征韓論(遣韓論)をめぐって閣議が紛糾する中、板挟みとなった実美は卒倒し、帰国した岩倉を代理として、結局、西郷らが下野することになります。
明治18年(1885)、内閣制度発足を受けて内大臣に就任。明治22年(1889)には黒田清隆首相の辞任に伴い、2ヵ月にわたり内閣総理大臣を兼任しました。
明治24年(1891)、没。享年55。
維新後、ほとんどの公家が閑職に追いやられる中で、新政府の中心に居続けることができたのは、一定の政治力を持っていたからなのでしょう。また幕末の尊攘派のイメージとは異なり、性格は温和で、調整能力に長けていたともいいます。
魚を食べるのが上手で、実美が食べた後は、皿の上に魚の骨の標本が載っているようだったと司馬遼太郎氏が書いています。三田尻に滞在していた頃、毎日新鮮な魚を食べることができて喜んだという話は伝わっています。
更新:11月21日 00:05