2018年01月15日 公開
2018年12月25日 更新
皇居・坂下門
文久2年1月15日(1862年2月13日)、坂下門外の変が起こりました。大老・井伊直弼が討たれた桜田門外の変はよく知られますが、その2年後、今度は老中・安藤信正が登城途中に水戸浪士らに襲われたのです。
安藤は磐城平藩主で、井伊大老の時代に若年寄から老中となり、井伊の死後は事実上、その後継として幕政の頂点にありました。安藤は安政の大獄のような強硬路線を否定し、幕府と朝廷の関係を深める公武合体策を採り、朝幕一つになって難局にあたる姿勢を示します。そしてその一環として進められたのが、14代将軍家茂への皇妹和宮の降嫁でした。
ところがそれが皇室を利用し、ないがしろにするものとして尊王攘夷派の怒りを呼び、坂下門外での襲撃事件となるのです。
その日、平山兵助はじめ6人の水戸浪士らが駕籠を襲い、安藤は負傷しますが、桜田門外の教訓で護衛の数が多かったこともあり、襲撃側は全員斬り死にしました。
安藤は幕府より「背中に傷を受けるのは武士の風上におけぬ」と、2カ月後に罷免されます。しかし負傷当日、安藤は包帯を巻いた姿でイギリス公使オールコックと面会しており、オールコックは安藤の胆力に驚いたと語っています。
また安藤の力量はアメリカ公使ハリスも認めていました。後の戊辰戦争の折、安藤の磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦っています。
更新:11月25日 00:05