2017年09月20日 公開
2018年08月28日 更新
明治44年(1911)9月21日、ジェームス・カーティス・ヘボンが没しました。医師であり、宣教師で、幕末・明治の日本において病人の治療を行なうとともに、英語を教え、ヘボン式ローマ字を創始したことでも知られます。
今ではヘボンという呼び方が定着していますが、James Curtis Hepburnというスペルですので、「ヘップバーン」と呼ぶのが本当は正確なのでしょう。 ヘボンは1815年、アメリカのペンシルベニア州の信仰心の厚い家庭に生まれました。井伊直弼や長野主膳、梅田雲浜と同い年ということになります。
1836年、21歳の時にペンシルベニア大学医科を卒業し、医学博士の学位を取得しました。その後、開業医として医療に携わりながら、海外伝道への使命感も抱いていたヘボンは、同じ関心を持つクララと1840年に結婚。 翌年、米国長老教会のシャム(タイ)への宣教師派遣計画に応募して、夫婦でアジアへ向かいます。7月にシンガポールに到着すると、宣教地がシャムからアモイに変更となり、アヘン戦争の終結を待って、2年後の1843年にアモイに渡りました。アモイでヘボン夫妻は息子サムエルを授かりますが、夫婦ともに猛威を振るっていたマラリアに罹患し、健康の悪化から伝道を断念、1846年にニューヨークに戻ります。
ヘボンはニューヨークで病院を開業しますが、当時、移民が続々と押し寄せるこの地は衛生状態が悪く、コレラが蔓延していました。ヘボンはコレラ患者に適切な処置を施して医師としての名声を得ますが、新たに儲けた3人の子供を病気で次々と失ってしまいます。 悲しみの中でヘボンは、ニューヨークを離れることを決意。そして14歳になっていたサムエルを知人に預けて、妻とともに通商条約を結んだばかりの日本へ、米国長老教会の医療宣教師として赴きました。
安政6年(1859)、44歳のヘボンは横浜に到着。以後、彼は33年間を日本で暮らし、幕末から明治にかけての日本の近代化に、大きく貢献していくことになります。 その内容はおよそ3つに大別でき、一つは医療活動、二つ目は和英辞典・英和辞典の編纂、三つ目は教育活動でした。
当時、幕府はキリスト教の布教は禁じていましたが、宣教師による医療活動は黙認しています。 そこでヘボンは神奈川(後に横浜)に施療所を開き、身分を問わず無償で診察・治療にあたりました。彼はこう記します 「私どもが街路を歩く時など、みな楽しそうに微笑んで会釈してくれます。この数日間に4人の患者の手当てをしました。そのうち3人は、私どもの番所の係の立派な武士たちでした。私がちょっとした手術を施すと、みな苦痛が取れてとても喜んでいたようです」
ヘボンは日本初の点眼式の西洋目薬の使用や、脳水腫手術、白内障手術も行ないます。 なかでも有名なのが、人気歌舞伎役者・三代目沢村田之助の脱疽を治療する片足切断手術で、クロロフォルム麻酔を使って施術し、なんと西洋義足で田之助を舞台に復帰させました。ヘボンの記録によると、5ヶ月間で3500人に処方箋を書き、手術は60回以上に及びました。1日に100人以上の患者を診察することもあったといいます。
次に和英辞典・英和辞典の編纂は、伝道のために聖書の日本語訳が必要になると考え、医療活動のかたわら、日本語研究・語彙の蒐集に取り組んだ結果の産物でした。日本初の本格的和英辞典『和英語林集成』を慶応3年(1867)に完成させています。また同書の構成のために漢字、ひらがな、かたかなに続く第四の日本語表記として「ヘボン式ローマ字」を考案、現在に至るも日本人はその恩恵を受けているのです。
さらに明治13年(1880)には、日本語訳新約聖書を完成させています。 そしてヘボンの教育活動が、文久3年に創設された英語塾の「ヘボン塾」です。塾は当時の常識を破る男女共学で、ヘボン夫妻自ら教鞭をとりました。 ここで学んだ者に兵学者の大村益次郎や、後の外相・林董、首相・蔵相を歴任する高橋是清、三井物産創始者・益田孝らがいます。その後、塾はJ.C.バラに引き継がれ、明治19年(1886)に「明治学院」という校名を得ました。 また明治3年(1870)にヘボン塾に着任したアメリカ・オランダ改革教会の宣教師キダーが、2年後に独自に女子教育を行なうために、ヘボン塾から独立します。これが後にフェリス・セミナリー(現在のフェリス女学院)へと発展しました。
さまざまな分野で日本の近代化に献身したヘボンですが、彼は見返りを求めていません。その生涯を貫いた姿勢は新約聖書にある”Do for others what you want them to do for you(人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい)”という言葉が最もあてはまります。この「Do for others」の精神こそが、ヘボンが日本に伝えた最も大切なものだったのかもしれません。
明治25年(1892)、病を得た妻のために、ヘボンは日本を離れ、それからはニューヨークで暮らしました。 明治44年(1911)、ヘボン没。96歳という長寿でした。
横浜指路教会(横浜市中区)
明治7年(1874)、はじめヘボンが関内居留地に設立。その後現在地に移ったが、当時の教会堂は関東大震災で倒壊。現在の教会堂は大正15年(1926)に再建されたもの。現在は横浜市認定歴史的建造物となっている。
更新:12月04日 00:05