2017年09月03日 公開
2022年06月16日 更新
文治5年9月3日(1189年10月14日)、藤原泰衡が討たれました。源頼朝に屈して父・秀衡の遺言を破り、源義経を殺して、結局奥州藤原氏を滅ぼした不肖の人物として語られることが多いですが、実際はどうだったのでしょうか。
泰衡は奥州藤原氏3代秀衡の次男に生まれました。生年は久寿2年(1155)とも、長寛3年(1165)ともいわれます。次男ですが正室を母としたため、嫡男として扱われました。
元暦2年(1185)、平家が壇ノ浦に滅ぶと、源頼朝と義経の対立が表面化し、頼朝は義経追討の院宣を得て、その捕縛を諸国に命じます。一方で頼朝は奥州の秀衡に対し、東海道惣官の立場を楯に、「陸奥から京都へ直送していた貢馬や貢金を、今後は鎌倉で預かった上で送る」と無理難題を押し付けました。秀衡を怒らせるための頼朝の策でしたが、秀衡はこれを受諾することで、無益な戦いを避けます。しかし文治3年(1187)、諸国を潜伏していた義経が、少年時代を過ごした奥州を頼って平泉に現われると、頼朝は早速秀衡に宛てて「義経を立てて反逆を企てるのか」と脅し、秀衡は即座に否定する返書を送ります。とはいえ戦いを望む頼朝の態度は変えようもなく、秀衡は決戦するしかないと腹を括りました。病の床についた秀衡は、家督を継いだ泰衡と、庶兄の長男国衡の融和を説くとともに、2人が義経を大将軍として守り立て、3人が結束して頼朝に当たることを命じます。天才的な戦術家の義経が一騎当千の奥州兵を率いれば、勝機はあると読んだのでした。そして3人に後事を託すと、同年のうちに病没します。
翌文治4年、頼朝は泰衡に対し、義経追討の院宣及び院庁下文を発しました。「義経を捕らえれば恩賞を与えるが、義経に与するのならば征伐する」という恫喝的な内容です。文治5年(1189)、しびれを切らした頼朝は、朝廷に泰衡討伐を認めるよう申請、この動きに泰衡は「義経追捕」を承知する文を頼朝に送りますが、頼朝はそれを全く無視して、奥州征伐の院宣の要求に動きました。ここに至り泰衡は、「義経と頼朝の兄弟争いのために、平泉を巻き込んで、奥州の民を苦しめるわけにはいかない」と考え、父・秀衡の遺言を破り、情を断ち切って義経を衣川に討ちました。義経の首は鎌倉に送られ、首実検も済まされます。
本来であればこれで泰衡の望む和平は成るはずでしたが、頼朝は狡猾でした。「義経をかくまってきたのは反逆以上である」と幕府御家人に出陣を命じ、朝廷に奥州追討の宣旨を申請したのです。さすがに朝廷も「追討は猶予せよ」と命じますが、頼朝は勅許を待たずに、精鋭を率いて奥州に進軍しました。ことここに至り、泰衡は「奥州武士の気概を示すのみ」と兄の国衡を総大将にして、阿津賀志山(現在の福島県伊達郡国見町)に城砦を築き、泰衡は国分原の鞭楯(現在の宮城県仙台市宮城野区)に布陣します。しかし長らく実戦から遠ざかっていた奥州兵に対し、歴戦の関東武士らは巧みな戦術で奥州軍を敗走させました。
平泉まで戻った泰衡は、「平泉を戦火で焼失させるよりも、我が身を捨てて平泉を守ろう。自分が腰抜けの汚名を蒙るのは構わない」と考えたのでしょうか。平泉館と宝蔵に火を放ち、戦わずに北上して比内の家臣・河田次郎を頼りました。しかし河田は寝返り、泰衡を討つと、その首を頼朝の本陣に持参するのです。頼朝は河田に対し、「旧恩を忘れる振る舞い」として斬罪に処し、泰衡の首の眉間に、前九年の役の故事にならって八寸の釘を打ちつけて、柱に掛けました。その後、ほどなく泰衡の首は平泉に戻され、黒漆の首桶に入れられて、中尊寺金色堂に納められます。泰衡は不肖の息子の汚名と引き換えに、中尊寺や毛越寺、無量光院などが建ち並ぶ黄金楽土の平泉を守ったといえるのかもしれません。
昭和25年(1950)の遺体調査で、泰衡の首には縫合された跡があり、手厚く葬られていたことがわかるとともに、首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかりました。その種は平成10年(1998)、809年の時を超えて発芽し、今は「中尊寺ハス」として目にすることができます。
更新:11月23日 00:05