2017年08月13日 公開
2023年04月17日 更新
阿弖流為(アテルイ) ・母禮(モレ) 之碑
(清水寺・京都市東山区)
延暦21年8月13日(802年9月17日)、アテルイが斬首されました。アテルイは蝦夷(陸奥の国の人々)の総大将として知られます。
天応元年(781)、桓武天皇が即位。桓武天皇は延暦3年(784)、長岡京に遷都すると、2年後には国策として蝦夷征討を宣言しました。 延暦8年(789)、征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)が5万3000の大軍を率いて北上。3月に衣川を渡ると、そこで陣を構えます。その後、桓武天皇の督促を受けて、5月の末に再び前進を始めました。そして巣伏の戦いが起こりますが、それについては勅撰史書『続日本紀』に記されています。
「賊帥夷(ぞくすいえみし)阿弖流爲(アテルイ)が居に至る頃おい、賊徒三百人許(ばかり)人有りて迎え逢ひて相戦う。官軍の勢強くして賊衆引き遁(に)ぐ」
巣伏の現在地については諸説ありますが、奥州市水沢区佐倉河と同市江刺区愛宕の北上川に架かる四丑(しうし)橋付近ではないかともいわれます。
紀古佐美は軍を前・中・後の3つに分け、中軍、後軍各2000ずつを北上川の西岸から東岸に渡らせ、北上させました。そして前軍は西岸を北上します。 中・後軍がアテルイの居に近づくと、300人ほどの蝦夷が迎え撃ちますが、朝廷の大軍を見て逃げ出しました。 嵩にかかった中・後軍は村々に火をかけながら、前軍との合流地点である巣伏村を目指します。一方、西岸を北上する前軍は蝦夷軍に阻まれ、渡河することができません。そして巣伏村に至った中・後軍に突如、800ほどの蝦夷軍が襲い掛かりました。この奇襲部隊は精鋭ぞろいで中・後軍は混乱します。 さらに東の山中から400の蝦夷軍が中・後軍の背後を衝き、中・後軍は潰走しました。朝廷軍1000人以上が川で溺死したといいます。この巣伏の戦いの鮮やかな勝利を蝦夷軍にもたらしたのが、アテルイでした。朝廷は大敗北に衝撃を受けるとともに、総大将アテルイの名は憎むべき賊将として記憶されます。
桓武天皇は蝦夷征討をあきらめず、延暦10年(791)、征討大使に大伴弟麻呂(おとまろ)を任命、その副使(副将軍)に抜擢されたのが、坂上田村麻呂でした。 延暦13年(794)、征討軍は実に10万もの軍勢で陸奥の蝦夷を攻め、大勝利を収めて、桓武天皇の平安遷都に花を添えたといわれます。しかし公的史書にその記録はなく、朝廷のいう大軍を派遣しての大勝利が事実であったのかは疑問が残り、アテルイも健在でした。
延暦16年(797)、坂上田村麻呂は40歳にして征夷大将軍に任じられると、4年後の延暦20年(801)、約4万の軍勢で蝦夷征討に向かいます。 翌延暦21年(802)1月、田村麻呂は陸奥国胆沢城に入りました。『日本紀略』にはその3ヵ月後、「夷大墓公(たものきみ)阿弖流為、盤具公母礼(ばんぐのきみもれ)ら種類五百余人を率いて降る」と記されています。なぜアテルイが、盟友の母礼とともに500人の同族とともに投降したのか、理由はわかっていません。一説に田村麻呂は大軍を率いて陸奥に現われたものの、大規模な殺戮は行なわず、仏教に帰依する心をもって説得をし、帰順した者を厚遇したため、投降する者が相次いだともいいます。アテルイも、大軍を相手に陸奥を焦土にする戦いを挑むよりも、田村麻呂を信じて、戦わずに歩み寄りたいと考えたのかもしれません。
田村麻呂はアテルイ、母礼の二人を連れて京都に戻りますが、そこにはアテルイと田村麻呂の信頼関係があったように感じます。田村麻呂の一行は7月10日に帰京し、25日には朝廷で蝦夷平定の祝賀会が開かれました。田村麻呂はアテルイ、母礼について、今後の陸奥統治のために役立てるべき人材であることを説きますが、公卿たちは耳を貸さず、蛮賊の首領は斬刑に処すと決定します。 田村麻呂はこれに強く反対しますが、それもむなしく、同年8月13日、河内国でアテルイと母礼は斬首されました。その後、アテルイと田村麻呂は多くの伝説となり、陸奥の賊主・悪路王を田村麻呂が退治する話などが伝わります。悪路王とアテルイは無関係とする見方もありますが、悪路王はアテルイであり、悪役に仕立て上げられたとする見方も根強く存在しています。
平成6年(1994)、田村麻呂が建立した京都・清水寺に、有志によって「阿弖流為・母禮之碑」が建てられ、毎年11月に慰霊法要が行なわれています。
更新:11月23日 00:05