2017年08月30日 公開
2023年03月09日 更新
昭和40年(1965)8月30日、宮崎繁三郎が没しました。陸軍中将で、インパール作戦において粘り強く戦功を挙げた、屈指の野戦指揮官として知られます。
明治25年(1892)、岐阜県厚見郡に生まれた宮崎は、陸軍士官学校に進み(26期)、陸軍軍人の道を歩みます。その後、陸軍大学に学びますが、成績はずば抜けて良いわけではなく、出世は必ずしも早くはありませんでした。しかし、前線における能力は抜群であったといわれます。
昭和14年(1939)のノモンハン事件には、歩兵第16連隊長として参戦。ソ連が本腰を入れて大軍を投入してくる中、日本軍は一個師団をほとんど失いますが、実はそれを上回る甚大な損害をソ連軍に与えています。特に宮崎の活躍は目覚しいものでした。難戦の最終局面で、敵の戦車部隊を撃退して敵地を占領してのけた宮崎は、ノモンハンにおける唯一の勝利戦指揮官と評されます。さらに彼は、日本が占領したことを記した石をその地に埋め、戦後の国境画定に大いに役立つことになりました。
昭和19年(1944)のインパール作戦には、陸軍少将の宮崎は第31師団・歩兵団長として参戦。インパール作戦そのものは、第15軍牟田口廉也司令官の補給を無視した無謀な指揮で一説に7万もの犠牲を出しますが、その中で宮崎の働きは光ります。宮崎は山岳地帯で自ら大きな荷を背負い、部隊の先頭に立って激戦の末、要衝の地・コヒマを攻略。コヒマはインド北東部の都市・インパールへの重要な補給路でした。しかしほどなく猛烈なイギリス軍の反撃が始まり、第31師団は補給路を断たれて孤立します。第15軍は第31師団に無謀な命令を下すばかりで食糧を供給せず、これに立腹した佐藤幸徳師団長は、無断抗命撤退を行ないました。しかし師団長は宮崎の歩兵団には現地死守を命じたため、宮崎らは敵中に置き去りになります。それでも宮崎は、巧みな遅滞戦術で友軍が退却する時間的余裕を生み出し、新たに撤退命令を受けると、見事に殿軍を務めました。しかも退却する際に負傷兵を見捨てず、戦病死した将兵は必ず埋葬していきます。自ら負傷兵の担架を担ぎ、空腹を訴える者には自分の食糧を与えて、励ましました。時には敵から食糧を奪い取ってのけたともいいます。宮崎は自分の部下だけでなく、見つけた他隊に対しても同じように扱い、負傷者は収容してともに退却し、死者は埋葬することを続けました。
「最少の犠牲で最大の効果をおさめるのが、戦闘の根本である。それには量よりは質、質よりは和の体制をとらねばならない」
そう宮崎は語っています。
インパール作戦後、第54師団長となった宮崎は、昭和20年(1945)4月にイラワジ川下流域で防衛戦を行ないますが、ビルマ方面軍の木村兵太郎司令官が逃亡したため、またも敵中に孤立します。 宮崎らは山地に逃げ込みますが、補給杜絶から餓えに苛まれ、やむなく分散して敵中突破を図ります。およそ半数が犠牲になったものの、たどり着いたシッタン河で、宮崎はイギリス軍を撃退しました。 全体としては惨憺たるビルマでの戦いでしたが、宮崎の下で戦い抜いた将兵たちは皆、「自分たちは負けていない」と胸を張ったといいます。宮崎は、何度も敵中に置き去りにされる目に遭いながら、司令部を批判する言葉は一切吐きませんでした。上官批判をすることは皆無であったのです。 また、宮崎は戦後、自分の手柄を誇ることは一切なく、「すべては部下たちのおかげだ」と語ったといいます。
戦後は小田急線下北沢駅近くで陶器小売店を経営し、穏やかな晩年を送りました。 ただ臨終の間際、うわ言で「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と何度も口にしています。 シッタン河を目指して敵中突破を図り、部下の半数を失ったことを気に病み続けていたのでしょう。昭和40年没、享年73。 名将とは、こうした人物のことを指すのではないかという気がします。
更新:11月23日 00:05