2017年07月30日 公開
2022年08月01日 更新
明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御されました。「和の心」「まことの道」を大切にされ、近代国家を目指す日本と日本人を導いた天皇として知られます。
おのが身はかへりみずして人のため
つくすぞ人のつとめなりける
明治天皇の御製です。「自分の身のことは顧みず、世のため人のために尽くして生きる。それが人としての大切な責務である」というこの歌は、明治天皇が重んじた「日本人の魂」であり、また明治天皇のお姿そのものでもありました。
万世一系の天皇とは、どんな存在なのか。明治天皇はそれを幼い頃、父帝・孝明天皇のお姿から学ばれたことでしょう。すなわち天皇とは、摂政、関白、征夷大将軍といったすべての役職を任命する「権力の源泉」であるとともに、国と民のために祈り、日本の「精神的な規範」を体現する存在であるということです。自ら「精神的な規範」である以上、そこに私心を差し挟むことは許されません。ひたすらに公のために尽くし、全身これ「公」であろうとすることです。
また、もし自らが任命した時の権力が、政治を「私」し、嘘、裏切り、汚職などが横行すれば、それは天皇が身をもって示されている精神的規範を汚すことになります。そうしたことを許してはならないという毅然とした御心を、明治天皇は持たれていました。 この「私」を去り、ひたすら「公」に尽くす姿勢は、多くの明治の人々に見られる美質であり、いわゆる「明治の精神」といわれるものの核心です。その象徴が、明治天皇の存在であるといえるのかもしれません。
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり 権力者には常に厳しい倫理をもって相対し、国民には慈愛に満ちた御心で包み込まれた明治天皇。その心のあり方は、まさにこの御製に示されたものであったことでしょう。
そんな明治天皇は近臣たちに分け隔てなく接し、時に酒宴に興じることもありました。侍従の高島鞆之助はこんな回想を残しています。
「天皇は朝早くから表御座所に御出御あそばされ、午後の五時から六時に奥にお入りになるのが常であったが、時々は『今宵は表御所で遊ぼう』とおっしゃり、夜が更けるまで侍臣たちと物語にふけり、御寝になる時には奥から寝具が運ばれ、侍臣たちも廊下で睡眠をとり、一夜を明かすことも珍しいことではなかった」
また明治天皇は三国志も大変好まれ、侍講の元田永孚が、好きな人物を尋ねると、「張飛」とお答えになられました。元田が「張飛の声は大きいですが、堯舜の声には及びません」と言うと、明治天皇は大笑いをされたということです。
晩年、持病の糖尿病が悪化し、明治45年7月にご不例が発表されると、国内は憂色に包まれました。明治天皇が可愛がられていた皇孫の迪宮(みちのみや、後の昭和天皇)も葉山御用邸から急ぎ戻られましたが、十分なご対面はできませんでした。
そして30日の夜。就寝していた迪宮は突如、「おじじさま」と声をあげられます。お付の者が驚いて声をかけると同時に、廊下から「皇孫様、すぐにご案内を」とお迎えが来ました。まさに迪宮が声をあげられた時、明治天皇は崩御されていたのです。 また同じ時刻、明治天皇の愛犬六号が、天皇のお部屋に向かって、異様な鳴き声をあげたという話も伝わっています。愛犬にも、そのことがわかったのでしょう。
大喪の礼が執り行なわれたのは、9月13日のことです。その日、乃木希典夫妻らが、殉死を遂げました。明治の世の終焉でした。
更新:11月22日 00:05