2017年05月20日 公開
2019年04月24日 更新
明治24年(1891)年5月20日、大津事件を憂えて、畠山勇子が命を絶ちました。大津事件はロシア皇太子の暗殺未遂事件です。
明治24年、ロシア帝国皇太子のニコライ(後のニコライ2世)が訪日。大国ロシアの皇太子の訪問を受け、日本は国をあげて接待しました。5月11日、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコライの乗った人力車が大津町を通過中、警備にあたっていた巡査の津田三蔵が突然、サーベルを抜いてニコライに斬りかかります。津田はすぐに周囲に取り押さえられましたが、ニコライは側頭部を負傷しました。津田がニコライを襲った理由は、日本に対するロシアの圧迫への反感であったともいわれます。
この事態に日本政府は動顚し、急遽、明治天皇自らニコライを見舞うため、京都に向かいました。その後、ニコライは神戸港に碇泊するロシア軍艦に移乗し、そのまま帰国の途につくことになります。
「このまま皇太子に帰られたのでは、わざわざ京都までお見舞いに行った天皇陛下の面目が立たない」と嘆いたのが、安房国出身で日本橋の魚問屋で奉公していた畠山勇子でした。勇子は亡父などの影響で政治に関心を持ち、新聞をよく読んでいたといいます。そして天皇自らニコライを見舞ったことにならって、国民から膨大な量の見舞い品と1万通もの見舞い電報が寄せられる一方で、ニコライが当初の予定を切り上げて帰国することに、天皇が憂慮されているという報道に接します。
「国民の思いとは裏腹に、強国ロシアとの国交が断絶しかねない国難に、天皇陛下が心を痛めておられる」。そう考えた勇子は奉公先から暇をとると、5月19日にひとり汽車で京都へ向かいました。そして20日早朝に京都に着くと、人力車でいくつかの寺を訪れた後、午後7時頃に京都府庁へ赴き、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と記した4通の嘆願書を門番所に投じ、府庁門前の地面に持参した白布を敷いて端座します。そして着物の裾が乱れぬよう手ぬぐいで膝を縛ると、帯を解き、剃刀で喉と胸をかき切りました。しかしすぐには死ねず、苦悶するところを通行人が見つけ、病院に運ばれますが、傷は深く、出血多量のためほどなく絶命しました。享年27。
嘆願書にしたためられていたのは、「囚人(津田)に代わり、自らの死をもってロシア皇太子に謝罪したい」という思いと、急遽帰国することを考え直し、寛大な処置を願う内容でした。自ら命を断って嘆願するという行為は、現代的価値観では理解しにくいですが、明治の世に、国の困難を我が事として案じ、一命をもって役立とうとした女性がいたのです。
なお大津事件を起こした津田に対し、ロシアを怖れる政府要人の多くは死刑に処すことを主張しますが、時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)・児島惟謙は、「刑法に外国貴族に関する規定はない」とし、「法治国家は法を遵守すべき」と政府の圧力をはねつけ、津田を無期懲役としました。児島は「もしこの判決のためにロシアと一戦交えることになれば、自分が真っ先に銃を執る」覚悟であったといい、ここにも明治人の気骨が窺えます。
畠山勇子の死には国際社会が同情を寄せ、ロシアの報復措置は一切とらない決定につながったといわれます。京都・末慶寺の勇子の墓には、ラフカディオ・ハーンも訪れています。
更新:11月24日 00:05