2015年11月25日 公開
2023年02月15日 更新
さて、もう1つ忘れてはならないのが、ソ連軍が北方で不法侵攻を仕掛けた地は占守島だけではなかったという事実です。
8月11日、ソ連軍は占守島に先立ち、日本領南樺太への侵攻を開始しました。樺太は千島列島以上に民間人が多く、戦時中は40万人ほどが居住していたと記録されています。
日本軍守備隊は民間人を避難させながらソ連軍と戦いましたが、残念ながら約4,000人もの無辜の市民が犠牲となりました。
樺太では、「女性たちの集団自決」という痛ましい出来事も起こりました。真岡郵便電信局の電話交換手のうち、9名が局内で服毒自殺を遂げたのです。映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の題材にもなっていますが、昭和49年(1974)の映画公開にあたっては、各方面から圧力がかかって上映館が縮小されたともいわれ、残念ながら多くの人々の目に触れる機会がなく、今に至るまで史実が充分に知られているとはいえません。
この真岡郵便局の話以上に語られてこなかったのが、樺太・恵須取町で起きた大平炭鉱病院看護婦の集団自決です。
8月16日、恵須取にソ連軍の空襲が始まり、被害者が次々と病院に運び込まれると「戦争は終わったはずなのに」と思いながらも、目の前の救急活動に追われたと看護婦の片山寿美さん(戦後、鳴海に改姓)は私に語りました。
迫りくるソ連軍を前に、看護婦たちは「最後まで、自分たちの職務を全うしましょう」と、ギリギリまで看護活動を続けたといいます。そして逃げ遅れた彼女たちは、「ソ連兵に見つかったら何をされるか分からない」と考え、自ら命を絶つ決断を下すのです。手首を切った片山さんは幸い朦朧としたところで救助されましたが、23名のうち6名が命を落としました。
なにも、自決することはなかったのではないか。私たちが戦後の物差しで、そう語ることは簡単です。しかし、彼女たちの脳裡には1920年、満洲の日本人居留民がロシア人を主とする共産パルチザンに筆舌に尽くしがたいほどの酷い凌辱を受けた事件が強い印象としてありました(尼港事件)。
ソ連兵の「実態」をよく聞いて育った彼女たちが下した選択を、私たちが軽々に論ずることはできないでしょう。
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占守島で戦った将兵や、樺太の女性たちに通じるもの。それは、与えられた職務に誇りを持ち、自分のためではなく人のために全うしたということに他なりません。そして、占守島に「日本の防波堤」となった者たちがいたからこそ、私たちは今の日本の国土で、平和な暮らしを享受できているのです。
依然、解決を見ない北方領土問題はもちろん、現代の日本の安全保障を考察する上でも、占守島の戦いは極めて重要な意味を持つのです。
昭和20年8月、北方の島々で何が起きたのか。沖縄戦などと比べて戦後、あまりにも伝えられてきませんでした。「忘れられた戦場」の事実を知り、将兵たちのありのままの姿を「史実」として語り継ぐことは、決して軍国主義でも、戦争の美化でもありません。
占守島で戦った日本人に感謝の念を持って謙虚に頭を垂れ、次世代へと歴史を語り継ぐことこそが、「戦後70年」を経て「ポスト戦後70年」を迎えた現在、私たちに必要な態度ではないでしょうか。(談)
更新:12月04日 00:05