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真田信繁、「真田の誇り」を胸に大坂冬の陣に起つ!

2014年12月20日 公開
2022年06月22日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

『歴史街道』2014年12月号より》

真田信繁

 

祖父と父から受け継いだ「真田の誇り」…真田信繁、冬の陣に起つ

九度山で襲居生活を送っていた真田信繁は、なぜ豊臣家の誘いに応じ、大坂城に入ったのか。ただ朽ちるのを待つだけの無為の日々から脱し、人生の最後に武名を残したいという思いがあったことは間違いないだろう。そしてその武名とは、祖父・幸隆、父・昌幸から受け継いだ不敗の軍法と、大敵にも屈することなく立ち向かう「真田の誇り」を賭けたものであった。

 

信繁へと繋がる真田の系譜

 慶長19年(1614)11月に火蓋が抑られた「大坂冬の陣」。この合戦で一躍武名を上げたのが、真田信繁です。後に「真田幸村」の名で、軍記物や小説が稀代の智将として描いた信繁は、時代や世代を超えて多くの人の心を捉えて離しません。そこでまず、信繁の魅力を語る上で欠かせない「名誉の武門・真田家」とはどんな家なのか、祖父・幸隆からの歴史を辿りながら探ってみましょう。

 信濃の名族・滋野氏に連なる真田一族は代々、信濃国小県を本領としていました。ところが信繁の祖父・幸隆の代に、武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍の侵攻を受け、先祖伝来の小県を追われることになります。幸隆らは隣国の上野国へ亡命し、本領奪還を悲願として苦難の日々を送りました。

 その後、幸隆は旧敵であるはずの甲斐の武田家に仕官し、武田信玄の家臣団に加わります。信濃制圧を志す信玄の許で、本領回復を果たすためでした。そして外様の新参者でありながら、幸隆は多くの武功をあげて信玄の信頼を獲得、家中で頭角を現わしていきます。特筆すべきは、信玄が大敗を喫した利上義清方の小県・戸石城を、調略を用いて真田の手のみで攻略してのけたことでしょう。信玄の強敵であった利上義清はこれを機に劣勢となり、やがて越後へ遁走。幸隆は功績により、信玄に念願の本領回復を許されるのです。すべてを失くした逆境の中で、奇跡的な所領奪還を果たした幸隆の姿からは、信膿の名族としての誇りとともに、戸石城調略が端的に示す優れた情報収集力と、数を恃まずに戦うゲリラ戦術に長けていたことが窺えます。

 幸隆の跡を継いで真田家を大名家へと発展させたのが、幸隆の三男で信繁の父である昌幸でした。2人の兄が長篠・設楽原の戦いで戦死したため、昌幸が家督を継いだのです。昌幸は幸隆が武田家に仕官した時に、人質として信玄の許へ送られましたが、信玄は早くから昌幸の才を見抜き、近習に抜擢。昌幸は信玄の側近くで、戦略的思考や采配を学ぶ機会を得ました。これが昌幸の類稀な用兵や駆け引きの才を培ったことは間違いないでしょう。信玄が三方ケ原で徳川家康を粉砕した際にも、昌幸は傑出した采配を目のあたりにしています。

 信玄没後、跡を継いだ勝頼からも昌幸は信頼されますが、天正10年(1582)、武田家は織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡。領土の大半は織田信長の手に落ち、その信長も本能寺で倒れると、甲斐・信濃は群雄の草刈り場と化しました。小県から上州にかけての小勢力に過ぎない昌幸は、北条氏、徳川氏、上杉氏と、盟約を結ぶ相手を次々に変えて巧みに真田家を存続させます。誰と結べは家を守れるか…昌幸の先を見る目と鋭い嗅覚は信玄の許で培った戦略眼あってのとでしょう。

 また古来、真田家が本領としてきた信濃の山岳地帯は、修験道の聖地です。後世に創作された『真田十勇士』における数々の忍者伝説も、真田家と修験者との関係から生まれたのかもしれません。全国を歩き回る山伏や巫女などのネットワークを使って独自の情報網を築き、積極的に情報を収集していたことは間違いないと思います。

 さらに身代が小さく、山岳地帯を基盤とする真田家の戦い方は、少ない手勢で敵に対抗すべく、必然的に地の利を最大限に活かすものになりました。そして、籠城戦と見せかけて伏兵で敵の裏をかき、戦わずに敵を切り崩す諜報戦や撹乱を行なうなど、ゲリラ戦や調略を得意としたのです。昌幸が、上野国沼田領の帰属をめぐって徳川軍の大軍と戦った天正13年(1585)の第一次上田合戦もその典型的なもので、寡兵で籠城して大敵を引き寄せておき、ゲリラ戦で敵を翻弄、撃退してのけています。こうした戦い方こそ、真田家伝来の軍法の真骨頂といえるでしょう。

 祖父・幸隆の本領を奪還した才覚と、真田家への誇り。父・昌幸の、信玄の許で磨かれた変幻自在の戦略・戦術の才と、戦国最強の武田家への誇り。それらが大敵にも屈することなく立ち向かう「真田の誇り」として、信繁に受け継がれていったといえるのです。

 

関ケ原から大坂の陣へ

 第一次上田合戦の際、昌幸は上杉景勝に支援を求めました。そして臣従の証のために、信繁は人質として越後へ送られます。その後、真田家は豊臣秀吉に臣従、信紫も改めて秀吉の許に人質に出されました。これが信繁にとって、他家の気風を知る機会となります。上杉家では直江兼続から「義」を重んじる謙信伝来の軍法を学び、大坂の秀吉の許では「天下の采配」を目のあたりにし、いわば武者修行約に軍法を習得する機会となったのです。

 やがて、信繁に大きな転機が訪れます。秀吉の死後、専横を極めるようになった徳川家康は慶長5年(1600)、上杉征伐を敢行。これに対し石田三成らは、打倒家康の挙兵に踏み切りました。この事態に上杉征伐に参加するはずの真田親子は、下野国佐野でいずれに与するべきかを相談。その結果、長男の信幸は家康の東軍につき、昌幸・信繁父子は西軍の三成らに与することになります。そもそも昌幸は沼田の一件以来、家康によい感情は持っていません。長男の信幸は、家康譜代の家臣・本多忠勝の娘を家康の養女として娶っていました。一方の信繁は、秀吉の仲立ちで石旧三成の盟友・大谷吉継の娘を娶っています。これにより真田家は、敵味方に分かれることになりました。いわゆる「犬伏の別れ」です。

 ただし私は、昌幸は自分なりに先を読み、やはり家康側が勝つだろうと見通していたのではと考えます。よく真田家を残すため、東西どちらが勝ってもいいように戦略的に両天秤をかけたといわれます。結果を見ればそうですが、果たして最初から昌幸がそういう計算をしていたかどうかはわかりません。むしろ家康には手を貸したくない意地というか、「真田の誇り」が、三成方に与する選択をさせたのではないかと考えています。

 関ケ原合戦は僅か1日で、徳川家康方の東軍完勝で終結しました。昌幸・信繁父子は、関ケ原へと向かう徳川秀忠の3万8千の大軍を、またも真田の軍法をもって上田城でさんざんに翻弄しますが(第二次上田合戦)、西軍の敗北により、敗軍の将として高野山の九度山へ流されることになります。家康は当初、2人を死罪に処すつもりでしたが、信幸の必死の嘆願もあって命だけは助けられました。

 信繁は働き盛りの34歳から48歳までの14年間、経済的な困窮と、二度と日の目を見ることはないであろうという絶望感に苛まれながら、蟄居生活を余儀なくされます。

 一方で、世の中は大きく動きます。家康は豊臣秀吉の死に際し、跡継ぎである秀頼の後見を託されてその補佐役、つまり「天下の家老」という立場にありました。しかし、関ケ原後、家康は自らの政権の樹立を本格的に考え始めたと思われます。もっとも家康は豊臣家について、秀頼が65万7千石の一大名の地位に甘んじるのならば、そのまま存続させる心積もりでいたと私は考えています。

 ところが、その方針を大きく転換させたのが、慶長16年(1612)に秀頼が二条城に家康を訪ねた「二条城の会見」でした。この会見で、家康は予想以上に立派に成長した秀頼の姿に衝撃を受けます。しっかりとした物腰で、教養にも富んでいる。家康は自らの70歳という年齢を意識せざるを得ず、自分の死後、諸大名が徳川家にそのまま臣従し続けるかどうか、不安と仕焦りに襲われました。そして豊臣家が大坂城に居続けて、将来の天下を窺うというのであれば潰すしかないと、家康は肝を決めて、豊臣家への攻勢に出るのです。

 しかし、家康には秀頼を討つ口実がありません。そこへ降って湧いたように起こったのが、「方広寺鐘銘事件」でした。家康はかなり強引なこじつけの末に、豊臣家を討つ「大坂の陣」へと持ち込んでいくのです。

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「真田家の誇り」を胸に大阪城へ入城 >

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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