2014年05月23日 公開
2022年11月14日 更新
《『歴史街道』2014年6月号より》
歴史好きの人の中には、合戦場や古都などを旅するのを好む人も多いはずだ。そんな場所で想像を膨らませると、歴史が一気に身近に感じられるから不思議である。
しかし、「地形」そのものも長い歴史の中で大きく変わっている場合が多い。そのことを知ると、歴史の真実が見えてくる、という問題提起をする前著 『日本史の謎は「地形」で解ける』 が大ヒット。その続編として発刊されたのが本書 『日本史の謎は「地形」で解ける(文明・文化篇)』 である。
「前著にも書きましたが、私は建設省に入省してから約20年間、ダムや河川事業の現場で技術者として地形や気象と格闘してきました。実は、そのような現場で大切なのが、土地の故事来歴です。昔の河川の流れはどうだったか、街道はどこにあったかなどを知っていると、治水工事などを適切に行なうのに大いに役立つのです。
だから多くの土地のかつての地形のデータは頭に入っていましたが、それが歴史と明確に結びついたのは、大阪勤務の折のことでした。ある日、昼休みに大阪城で『石山本願寺推定地』という看板を見つけたのです。実はその時まで、大阪城の場所に石山本願寺があったことを知らなかったのですが、しかし、そうとわかると、なぜ織田信長が本願寺を相手にあれほど苦戦をしたのかがわかりました。
大阪城が築かれた場所は、南から細長く伸びる『上町台地』という高台の最北端なのです。当時、大和川や淀川の流れも今とは全く違って、大阪城の東から北にかけてすぐ近くを流れていました。周囲は湿地帯で、まさに難攻不落の土地だったのです。逆に、信長があそこまで本願寺との戦いにこだわったのは、この一大戦略拠点をどうしても手に入れたかったからなのだろうことがよく見えてきました」
大胆な歴史の見方をいくつも提起しているが、反論などはほとんど寄せられていないという。
「私が歴史の従来の説を否定しているわけではなく、あくまで『地形』という別の角度から光を当てることで、歴史を立体的に浮かび上がらせたいと考えているからでしょう。たとえば、江戸期まで燃料の多くは薪に頼っていましたが、それによってどれほど当時の森林が荒廃していたかを知っていると、各々の時代に、なぜ大都市が場所を遷したのかもわかります。徳川幕府が江戸で街づくりをした理由も、森林がすっかり荒れていた関西では、あれだけの規模の街を造成することは到底不可能だったからなのです。
当時の地形がどうなっていたか。河川や森林、あるいは街道はどうなっていたか。そうした歴史の『舞台』が見えてくれば、その舞台の上で生きた『役者』、つまり歴史上の人物の気持ちや考えも、自ずとわかってきます」
「断言調」で文章を書くことを意識しているという。
「これまで役人として、断言を避ける書き方をしてきましたが、やはり断言しないと文章がつまりません。とはいえ、私が提示しているのは、あくまで『地形」という視点から見た仮説です。これがきっかけになって、歴史の議論が深まっていけば、これほど嬉しいことはありません。専門分野以外の人間が、自分の専門を生かしつつ口を出していくことの意義は、そういう所にあると、私は思っているのです」
『日本史の謎は「地形」で解ける』第2弾。前作同様、ミステリーの謎解きの快感と、固定概念がひっくり返る知的興奮が味わえる一冊。
★立ち読み★
なぜ頼朝は狭く小さな鎌倉に幕府を開いたか、なぜ信長は比叡山を焼き討ちしたか……日本史の謎を「地形」という切り口から解き明かす!
★立ち読み★
<掲載誌紹介>
2014年6月号
<読みどころ>「眠れる獅子」と呼ばれたアジアの大国・清に対し、日本は明治27年(1894)、乾坤一擲の戦いに踏み切りました。日清戦争です。日本にとって初めての対外近代戦争である日清戦争を、「侵略の始まり」とする見方もありますが、事実はどうなのでしょうか。
実はこの時の日本人の決断は、明治維新以来の欧米列強のアジア侵略に対する強烈な危機感と、それに対抗するために日本が近代化、及び清国、朝鮮との提携を望んでいたことを知らなければ、決して理解できません。列強の侵略に背を向け、旧態依然とした政治体制を墨守する清国に、近代化の意味を知らせるべく日本は起ったのです。120年目の今、日清戦争の真実に迫ります。
第二特集は大河ドラマに登場中の武将「荒木村重の謎」です。
更新:11月23日 00:05