ところで会津藩には、八重のように銃で戦わずとも、中野竹子をはじめ薙刀などを手に敢然と戦った女性たちが数多くいました。会津戦争の大きな特徴は、男性藩士はもちろん、女性たちや子供たちも極めて勇敢に身を処したことにあります。なぜでしょうか。その大きな理由は教育にありました。
会津藩の教育は、有名な「什の掟」から始まります。6歳から9歳までの藩士の子供(男子)が同じ町内で10人前後の集まり(什)を作り、次のような掟を唱えるのです。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ。
一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言を言ふことはなりませぬ。
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ。
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、戸外で夫人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです
「什」に入らない女子も、同じ雰囲気の中で成長したことはいうまでもありません。
さらに藩士の男子は10歳になると藩校・日新館に入学します。ここで最初に学ぶのが『日新館童子訓』という教科書です。5代藩主・松平容頌が編纂したもので、人として大切な倫理を、その具体例となる古今の逸話を通して学べる構成になっていました。
たとえばその第34話では、戦国時代の筑前の武将・高橋紹運が島津の大軍に城を攻められ降伏を勧告された折に、「人生は朝露が日差しに消えるようにはかないもので、ただ長く世に残るのは義名だけと存ずるにより、降参つかまつらず」と答えて最期まで戦い抜き、城の士卒1800人も1人も逃げずに運命を共にした故事が書かれています。
この他にも忠義については、南北朝時代に大塔宮の身代わりに切腹した村上義光や、節義を全うした楠木正成・正行父子などが紹介されています。もちろん書かれているのは「忠義」ばかりではありません。親孝行の具体例として、会津藩内の実話も数多く収録されています。「それぞれのシチュエーションで、武家としていかに行動すべきか」がしっかりと教育されていたのです。
会津藩の凄みは、この教科書を木版刷りにして、藩士の全戸に配布していたことでしょう。そのため女性たちの多くも、この本を暗誦できるほどに読み込んでいました。八重も晩年に至るまで『童子訓』を暗誦し、籠城の苦労を乗り越えられたのは教育のおかげだと語っています。会津戦争で女性や子供が義を貫き通したのは、まさにこの教科書があればこそだったのです。
ちなみに会津藩祖・保科正之が家訓に「婦人女子の言一切聞くべからず」と書いたことから、会津藩では女性を蔑視したように思われる向きもありますが、それは大きな誤解です。この家訓はあくまで、藩主や家老はじめ為政者が、女性の寝物語のおねだりにほだされて政治を左右することを戒めるものであり、いま述べたように会津藩の女性たちも、武家としていかに行動すべきかを学んで、積極的に生きていたのです。
更新:11月22日 00:05