戦場での活躍こそが華とされ、武功を挙げた人物が注目されることが多い戦国武将。しかし、合戦での功績は少なくとも、文化面で大きな足跡を残した武将たちもいました。時代が違えば、より評価されていたかもしれない人物も...。本稿では、美的センスを持ち合わせた武将・古田織部を紹介します。
古田織部正重然は天文12年(1543)、美濃山口(現在の岐阜県本巣市山口)にあった山口城主、古田重安の甥として生まれた。父は重定。
重然は永禄10年(1567)8月に織田信長が美濃を併合する前後、織田家に属し、細川藤孝の使番(連絡役)の役職に就いたという。当時の藤孝は足利義昭(のちの室町幕府15代将軍)の家臣であり、信長の指揮も受けるという立場だったから、織部は政治的なセンスや外交儀礼にも長けた青年に成長していたのだろう。
翌年の信長上洛戦に従い、摂津茨木城の中川清秀の妹婿になったうえ、天正2年(1574)には荒木村重の寄騎となる。天正6年(1578)11月に村重が信長に背いた際には、茨木城におもむいて清秀を村重から織田方に寝返らせた。信長は「摂津を鎮定できたのは、ひとえに重然の判断のおかげだ」と彼を激賞している。
天正10年(1582)の本能寺の変後は羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に従い、各地で戦いに参加する中、重然は茶道に没頭していくことになる。
同年8月、茶湯名人の千利休が山城の妙喜庵に宛てた書状の中に、彼の名が登場しているのだが、このころ山城の一部を支配していた重然は、利休が茶室「待庵」(現在国宝)を移築した妙喜庵に足を運んで茶会を開いてくれと懇請したのだろう。2ケ月後、重然の希望通り、利休は妙喜庵に滞在している。
翌年には秀吉の大茶会に利休と重然は茶頭と客のひとりという関係で同席。その後も利休と重然の茶湯師弟は交流を深めていった。
そんなふたりについて、こんな逸話がある。利休が弟子達に「勢多の唐橋の擬宝珠の中に2つ、見事な形のものがある」と語ると、重然はいきなり席を立ち、夕刻にようやく戻り、「早馬で勢多まで行って確認して参りましたが、くだんの擬宝珠はあれとこれではございませぬか」と的中してみせたという。
その他にも、重然の美的センスの鋭さと茶道における独創性をうかがわせるエピソードは多い。
しかし、重然の才能に大なる期待を寄せていた利休は、天正19年(1591)に秀吉により追放されてしまう。重然は京から堺へ下る利休を、後難も恐れず相弟子の細川忠興とただふたり見送るのだが、のちの重然の茶道の本質がすでに現れているようだ。
利休死後は秀吉の茶頭筆頭を務めた重然だが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に加担。この前後から美濃の釜で「織部焼」を造らせていた重然は、ひずんだ形や奇抜な「へうげたる(剽げた、奇抜な)」器の一大ブームを起こし「織部流茶道」を開く。
しかし、奇抜、意外性、破壊を重んじる重然の茶道と人脈は、泰平・安定を優先する徳川幕府に危険視された。慶長20年(1615)、大坂夏の陣の直後、重然は大坂方との内通を疑われて切腹させられ、ひと言も弁解せず死んでいったという。
更新:04月02日 00:05