2012年10月11日 公開
2022年11月14日 更新
(画像はイメージです)
「忍び」といえば、まず伊賀、甲賀である。忍びの強さは「神妙奇異の働き」として全国に鳴り響いていたというが、実際にはどのような人物が忍びとして生きていたのだろうか。伊賀、甲賀で中心的に活躍した忍者を列伝として紹介する。
※本稿は、「歴史街道」2012年11月号より、一部を抜粋編集したものです。
「忍び」といえば、まず伊賀(いが)、甲賀(こうか)である。伊賀は現在の三重県北部、甲賀は滋賀県南部に位置し、地図上では隣接した地域だが、なぜこの地で忍術が発達したのか。
1つの理由として、この地に多くの杣(そま)が置かれていたことが挙げられる。杣とは、都の造営や寺院建立などのための木材の伐採地をいう。奈良や京都に近い伊賀や甲賀は、杣として好適地であった。
杣の人々は当然、卓抜した敏捷性や登攀力、腕力を身に付け、薬草などの知識も持つことになる。さらに木材を運搬する人々の行き交いが、先端技術や知識をこの地にもたらすことになった。
一方、都からも適度な距離にあるこの地には、渡来人が多く住み着いた。伊賀の服部氏は、一説に技術系渡来人の一族だともいわれる。伊賀や甲賀の忍びが誇った高い火薬技術などは、このような伝統を背景にしてのものであろう。
さらに、修験道が盛んな地でもあった。密教や神道、陰陽道などが融合し、山岳で厳しい修行を積んで霊験を得ることを目指すものだけに、多様な知識や術技の宝庫でもあった。呪文(真言)など、忍びの信仰にも大きな影響を与えている。
これらを総合して、火薬や薬草など様々な知識や技術に通じ、高い身体能力と精神力を発揮して目的を達成する「忍び」の技が、伊賀、甲賀において磨き高められていったのである。
伊賀、甲賀ともに強力な領主は現われず、地侍を中心とした自治共同体(惣)が形成されており、忍びの技は、自分たちの地を防衛するために用いられた。その妖しいまでの強さは「神妙奇異の働き」として全国に鳴り響き、それゆえ、この技を活かして、傭兵的に働く者たちも多かった。
では、伊賀、甲賀の忍びたちはどんな活躍をしたのか、以下、紹介していこう。
望月出雲守は、室町時代後期の「鈎の陣」で活躍した甲賀衆の1人である。当時、応仁の乱後の混迷を衝いて、近江国守護の六角高頼が自国内の荘園を押領し、勢力を拡大させていた。
これを討伐すべく長享元年(1487)9月、将軍・足利義尚が出陣。六角高頼は甲賀へと退却し、幕府軍はその入り口に当たる鈎に陣を張った。
ここで望月出雲守ら甲賀衆は、「亀六之法」で幕府軍を苦しめた。
亀が頭や尾、四本の足を甲羅に入れて守るように、山地に籠って敵が攻めれば引き、敵が引けば攻めるゲリラ戦を繰り返したのである。
さらに対峙すること数カ月、12月のある夜のこと。幕府軍の陣ににわかに煙が立ち込めた。そして煙の中から現われた男たちが各所に放火し、次々と将兵を襲ったのである。これぞ、望月出雲守による火薬を駆使した戦法であった。
この夜襲で将軍義尚は深手を負い、幕府軍は大損害を蒙った。
結局、幕府軍は敗退。六角高頼は戦いに参加した甲賀衆を「甲賀五十三家」として遇し、中でも功の大きかった家を「甲賀二十一家」として褒賞した。そして望月出雲守は、その筆頭家として処遇されたのであった。
戦国期に入ると、伊賀、甲賀の忍びを活用する武将も増えていく。とりわけ徳川家康は若い頃から、忍びをうまく使った。桶狭間の戦いの後、家康は今川から独立して織田と手を結び、旧領三河を回復すべく今川方の鵜殿長照の上郷城を攻めるが、なかなか落すことができない。
そこで家康は、甲賀衆の助けを借りることにした。この時、活躍したのが伴与七郎らである。彼らは手勢数十名を率いて、敵城に潜入。放火と襲撃を繰り返しつつ、「裏切りだ」と叫んで敵を混乱させ、敵将・長照を見事に討ち取ったという。
伊賀や甲賀の忍びは火術を得意とし、鉄砲の名手も多かった。中でも甲賀衆の杉谷善住坊の腕は際立っていたという。これを見込んだ六角義賢が、織田信長暗殺を命じる。
元亀元年(1570)、浅井の裏切りによって朝倉攻めに失敗した信長は、越前から京都へ逃げ帰り、態勢立て直しのために岐阜に戻ろうとしていた。
その途上の「千草越え」で、善住坊は約22~3メートルの距離から信長を狙撃。だが、仕損じてしまう。後に善住坊は信長に捕らえられ、「鋸引きの刑」に処された。
伊賀の忍びの名を大いに高めたのが、天正7年(1579)と天正9年(1581)の「天正伊賀の乱」である。ここで伊賀衆を率いたのが、百地丹波であった。
伊勢を支配下に置き、その地に次男・信雄を配した信長は、さらに伊賀攻略を企図し、信雄は南伊賀の丸山城をその拠点とすべく築城を始めた。これに対し伊賀衆は丸山城に忍び込み、各所に火薬を仕掛けて、築城中の城を爆発炎上させた。
激怒した信雄は天正7年、信長の許しを得ずに兵8千を率いて伊賀に侵攻。第一次天正伊賀の乱が勃発する。百地丹波率いる伊賀衆は山岳戦やゲリラ戦を展開して、信雄軍を大いに翻弄した。緒局、信雄は兵の半数近くを失い、重臣も討たれるという大敗北を喫してしまう。
この報に、信長は怒り狂った。そして天正9年、自ら4万もの兵を率いて伊賀に攻め入る。第二次天正伊賀の乱である。老若男女を問わず次々となで切りにする信長軍の暴威の前に、さしもの伊賀衆も追い詰められていく。
それでも伊賀衆はゲリラ戦や夜襲を執拗に展開し、1カ月にわたって戦ったがついに力尽き、城兵の助命を条件に降伏したのであった。百地丹波は討死したとも脱出したともいわれる。
この乱を契機に、伊賀衆の名は全国に轟いた。各地に逃げ延びた伊賀衆も多く、他国の大名が「忍び」として伊賀衆を登用するきっかけともなった。
伊賀では服部家、百地家、藤林家が上忍三家と呼ばれて大きな影響力を誇っていた。
このうち服部家は、服部半蔵(初代)保長の時代に京都へ出て室町幕府12代将軍の足利義時に仕え、その後に家康の祖父である松平晴康に仕えたとされる。
世上有名なのは2代目の服部半蔵正成である。彼は数々の合戦で伊賀衆を率いて戦い、大いに武名を鳴らした。もっとも、正成自身は伊賀生まれではなかったので忍術修行を積んでおらず、あくまで武将として活躍したといわれる。
本能寺の変の際には、わずかな供回りで堺に滞在していた家康を無事に三河に帰らせるべく、半歳は伊賀在地の伊賀衆たちに話をつけ、警護に当らせた。世に名高い「神君伊賀越え」である。
徳川幕府が成立すると、忍びとして大いに名を上げていた伊賀衆や甲賀衆は、幕府や各大名に登用された。その末裔として印象深い1人に、信州松本の戸田家に仕えた芥川九郎左衛門義矩がいる。
もともと芥川家は甲賀二十一家に数えられる甲賀忍びの系譜だが、九郎左衛門義矩は享保17年(1732)に生まれ、文化7年(1810)に没している。
芥川義矩には、不思議な伝承が数多く残されている。天明3年(1783)、隣藩のお家騒動で悪臣に監禁された家老を、身体を透明にする薬を用いて助け出した話。
藩主から酒席にて忍術の披露を求められた折に、宴席の腰元たちが気付かぬうちにその腰巻きをすべて剥ぎ取ってみせた話...。
歴史の陰で活躍してきた「忍び」の実像を具体的に描き出すのは、実はそう容易ではない。だが忍びは、虚を実に見せ、実を虚に見せて相手を翻弄する「虚実の転換」を大事にしたという。
腕利きの忍びがいるという評判自体が、敵の侵入を憚らせる抑止力にもなった。世の人の度肝を抜く「忍者伝説」の数々も、その意味では極めて「忍び」らしいものといえるのかもしれない。
更新:11月22日 00:05