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『解体新書』刊行に至るまでの困難とは? 杉田玄白が日本の医学にもたらした功績

2024年07月30日 公開

坂井建雄(順天堂大学保健医療学部特任教授)

解体新書
写真:『解体新書』序図(福井県立若狭歴史博物館蔵、以下同)

杉田玄白はなぜ、『解体新書』の刊行を思い立ち、そしていかにしてそれを成し遂げたのか。その過程や乗り越えた数々の困難を紐解いていくと、『解体新書』が後世に残したものと、玄白が発揮した能力や彼の果たした役割が見えてくる。

【坂井建雄】
順天堂大学保健医療学部特任教授
昭和28年(1953)、大阪府生まれ。東京大学医学部卒。東京大学医学部解剖学教室助教授、順天堂大学医学部教授などを歴任。解剖学者・医史学者。著書に、『医学全史』『面白くて眠れなくなる解剖学』『世界史は病気が変えてきた』などがある。

 

傑出していた西洋の解剖学

『解体新書』は安永3年(1774)に刊行されますが、18世紀の西洋医学と日本の医学の水準は、「あまり変わらなかった」と私は考えています。これは『解体新書』の価値を下げるものではなく、その意義を知るうえでも、押さえておきたいポイントです。西洋の伝統医学は元々、古代ギリシャのヒポクラテスや古代ローマのガレノスの医学を引き継いできたものです。

何を病気と捉えるかという手がかりは、頭痛や下痢といった身体に現われる症状、つまり身体症状くらいしかなく、そのため身体症状イコール病気であり、頭痛イコール病気、下痢イコール病気とされました。

この伝統医学が近代医学に移行するのは19世紀、病理解剖によって、臓器の病変が発見されてからです。心臓や肺といった臓器の病変が病気の本体と捉えられ、身体症状は病気を診断するための手がかりという位置づけにかわります。

まず診断ができるようになって、その後に治療方法が次々と生み出され、近代医学が発展しました。そのため、西洋の伝統医学は衰退してしまいました。

逆に漢方医学は現在まで生き残り、役に立っています。むしろ漢方医学のほうが、当時も今も有効だといえるかもしれません。

ただし、解剖学だけは18世紀以前から西洋が傑出していて、外科は同時代の日本より西洋が優れていました。
手術に関しては、解剖を知らない日本よりも、解剖を知っている西洋のほうがうまかったのです。それは当時の人にも認識されていて、西洋医学の外科は鎖国の時代にも取り入れられ、「南蛮外科」「紅毛医学」などと呼ばれました。

ちなみに、天保9年(1838)に大坂で適塾、江戸で順天堂が誕生しましたが、適塾は医学を中心にした語学塾、順天堂は外科で人を救おうとする実践的な医学塾に位置付けられます。

 

『ターヘル・アナトミア』翻訳は困難を極めた

解体約図
写真:『解体約図』(東京大学総合図書館蔵)

さて、本題の『解体新書』の話に入りましょう。

明和8年(1771)、若狭小浜藩の藩医だった杉田玄白は、前野良沢、中川淳庵と、小塚原の刑場で腑分け、つまり解剖に立ち合いました。

そこで、オランダの解剖学書『ターヘル・アナトミア』に描かれている人体図の正確さに驚嘆した玄白は、良沢、淳庵たちと同書の翻訳を志します。時に玄白、39歳のことでした。

『ターヘル・アナトミア』は、ドイツのヨハン・アダム・クルムスという医師による解剖学書のオランダ語訳です。その書にある解剖図は、銅版画で描かれていて使いやすいのですが、かなり簡略ともいえ、実は超一級品というわけではありません。特に全身の動脈の図などは、一枚の銅版画に収めるために、かなり無理をしています。

それでも、内臓、筋肉、骨の正確さに杉田玄白たちが驚いたのですが、ここでポイントとなるのは『ターヘル・アナトミア』が解剖学書だったことです。果たして玄白らは、他の医学書でも同じような衝撃を受けたでしょうか。

たとえば、西洋の内科の教科書は漢方医学の内容と重なるところがまったくなく、理論も用語も違います。おそらく、玄白がそれに触れても、雲を摑むようなものだったでしょう。

ところが、人体の構造は万国共通であり、いわば、「普遍的な言語」と評せます。また、「真理を解明する」という点で、人体を解剖して事実を明らかにする解剖学は、医師だけでなくあらゆる人々の心に訴える力があります。

こうしたことから、「解剖学書だから、玄白たちは衝撃を受けた」と見ることができ、さらにいえば「解剖学書だから、翻訳が可能だった」と思います。

自分の身体と照らし合わせることによって、オランダ語の単語を理解することができるし、それを日本語に置き換えるという作業が、他の科学書より比較的容易になるからです。

といっても、あくまで「比較的」であり、『ターヘル・アナトミア』の翻訳は困難を極める事業でした。玄白は『蘭学事始』で、次のように記しています。

「ターヘル・アナトミアの書にうち向ひしに、誠に艫舵なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、たゞあきれにあきれて居たるまでなり」

困難の第一は、オランダ語です。当時、オランダ語の書物を解読できるのはほぼ長崎の通詞だけでした。そこで玄白は、オランダ語を多少勉強していた前野良沢(この人は語学に対して特殊な才能をもっていました)を中心に、中川淳庵、桂川甫周の四人で研究会、言い換えると「チーム」を結成して対応していきます。

チームで議論して訳したことを、玄白はその夜に漢文の草稿にまとめて残すのですが、その集大成が『解体新書』だったのです。

困難の第二は、対象が解剖学という未知の領域だったこと。そのため、内容を理解すること、それから日本語として表現することは大変な作業でした。しかも、『ターヘル・アナトミア』の各ページは、上に箇条書きの一覧表、下に注釈が載っていて、情報量が多いのです。翻訳チームは、このうちの注釈を捨て、箇条書きだけを訳しました。これはうまい対応だったと思います。

困難の第三は、オランダ語の翻訳書を出版することへの偏見と批判です。これを乗り越える工夫として、玄白はまず予備的に内容を紹介する『解体約図』の出版を通し、世間の反応を探りました。それから、高名な通詞の吉雄幸左衛門(耕牛)から序文をもらうことで、お墨付きを得ました。また、公家、さらには大奥を介して将軍に献上してもいます。将軍がもっているとなれば、批判しにくいからです。

困難の第四は、銅版画の技術がなかったこと。そこで、銅版画の代わりに、木版画を使いました。『解体約図』では若狭の画家・熊谷儀克、『解体新書』では平賀源内の弟子だった小田野直武が描いたものを木版画で作成しています。こうして数々の困難を乗り越え、『解体新書』は安永三年に刊行へと至るのです。

 

杉田玄白と前野良沢の真の関係

医聖堂前哲帖写真:『医聖堂前哲帖』より前野良沢肖像(東京大学医学図書館蔵)

『解体新書』は、「若狭杉田玄白翼譯 日本同藩中川淳庵鱗校 東都石川玄常世通參 官醫東都桂川甫周世民閲」とあり、玄白、淳庵、甫周の名前が並んでいますが、翻訳の中心を担った前野良沢の名前はありません。

玄白は『ターヘル・アナトミア』原著者の序文を一人で訳しましたが、不正確なものでした。玄白自身、当時の語学力が大したものでなかったと、『蘭学事始』で正直に書いています。

良沢が『ターヘル・アナトミア』の翻訳に大いに貢献したことは想像に難くありません。そのため、「良沢の名前がないのはおかしい。玄白と喧嘩していたのではないか」という説が出されているのですが、二人の関係は悪くなかったと、私は見ています。

その証拠として、まず『解体新書』の序文を挙げておきましょう。これは、良沢が玄白に吉雄幸左衛門を紹介し、書いてもらったものだからです。

また『解体新書』の出版後も、二人には親交がありました。たとえば、杉田玄白は自分の門人を前野良沢に送り、育ててもらっています。二人の共通の門人とされているのが、建部清庵、宇田川玄随、大槻玄沢、司馬江漢らです。

さらにいうと、享和2年(1802)、玄白70歳、良沢80歳の祝賀会を合同で催しています。良沢が亡くなった後、最晩年に玄白が思い出語りとして書いた『蘭学事始』では、良沢に関する記述には尊敬の念が感じられ、手前勝手なことはまったくいっていません。これらの史実を見ると、二人が喧嘩したとは考えられません。

では、なぜ良沢の名前が『解体新書』にないのか。

『ターヘル・アナトミア』の研究会は、解読を共通の目的としていました。オランダ語への関心が強かった良沢は『ターヘル・アナトミア』を読み解くこと自体に価値を置いていましたが、玄白は世に出すことに価値を置いていたのでしょう。そして、二人はお互いに相手の立場を理解し、リスペクトしながら翻訳作業に取り組んだと、私は推測しています。

ですから、良沢は「出版するな」とはいいませんし、玄白は良沢が名前を載せたくないのがわかっているから、無理強いはしなかったのではないでしょうか。

私自身も、チームで翻訳事業を進めているのですが、メンバーが相互にリスペクトしあうことが非常に重要だと感じています。良沢にしても、玄白の実務的な能力を高く評価していたことでしょう。

その玄白の能力として注目すべきは、まず研究会をつくって、解読に取り組もうとした企画力です。それに加え、人間関係を円滑にまわしながらバランスを取り、プロジェクトを実現させていく調整力がありました。

さらに、前述した『解体新書』を出すまでの周到な準備を踏まえれば、玄白なしに『解体新書』の刊行は難しかったことでしょう。

 

『解体新書』が残したもの

初めて西洋語を日本語に翻訳した『解体新書』から、蘭学のブームが起こります。福沢諭吉は『蘭学事始』を読んで感動したことを記していますが、そもそも「人材を輩出した」といわれる適塾の出発点は、杉田玄白だったといえるかもしれません。

玄白たちの翻訳で特筆すべきは、中国から輸入した「漢字」という表現力の高い文字を使い、日本語に置き換えたことです。

一例を挙げると、「sternocleidomastoideus」という医学用語があります。これはギリシャ語に由来し、「sterno」は胸骨、「cleido」は鎖骨、「mastoid」は乳様突起のことです。

欧米でギリシャ語の知識がない医学生は、こういった医学用語を「お経」のように丸暗記しなければいけません。また、西洋で生まれた近代医学を母国語で教えられる国はきわめて少なく、英語を使わざるを得ないため、タイやフィリピンなどでも丸暗記するしかないのです。

ところが、日本は違います。

「sternocleidomastoideus」は、「胸鎖乳突筋」と翻訳されました。この漢字を見れば、「胸骨、鎖骨から乳様突起付近に至る筋」と、なんとなくわかるでしょう。日本語で医療を学ぶ学生は、意味がわかって覚えることのできる点で得をしています。

また今日、医師が診療の目的や内容を説明し、患者の同意を得るインフォームドコンセントが重視されます。欧米では相応の知識をもっていないと、医学用語で説明されても理解するのが難しい。一方、日本では漢字で表現される医学用語なら、それなりに意味を取ることができます。

『解体新書』から始まった「西洋の用語を日本語化すること」の影響は、幕末から明治にかけて及び、政治、経済、科学技術、文化と、広い範囲で、英語、ドイツ語、フランス語などの「横文字の概念」が漢字で表現されました。

たとえば、「democracy」を「デモクラシー」といっていたら、政治に関する知識がないと、何のことかわかりません。しかし、「民主主義」と見事に漢字化されたことによって、「民が主となる政治の在り方」と理解できます。

玄白たちは翻訳語を発明して、西洋の概念を日本語化する突破口を開き、そのおかげで、西洋の概念が理解しやすくなるという恩恵を、われわれは与えられたのです。その意味で、『解体新書』は日本の近代化に少なからぬ貢献を果たしたといっても過言ではないのです。

周到に布石を打って、大きな困難をことごとく乗り越え、玄白は『解体新書』の発刊を実現しました。その原点には、「世のため人のため」という志がありました。刊行から250年を迎えようとしている今こそ、彼の志と成したことを、再評価すべきなのではないでしょうか。

 

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